セザンヌ2006について
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CÉZANNE2006
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CÉZANNE2006
日本語版公式ホームページは、
エックス・アン・プロヴァンス観光局、
プロヴァンス地方観光局、
フランス政府開発機構の協力のもと、
メゾン・デ・ミュゼ・ド・フランスと
ミッション・セザンヌ2006が
共同で運営しています。
 
 
 
近代絵画の父セザンヌ
プロヴァンス時代のセザンヌ
セザンヌ年譜
セザンヌをより知るために
 
 
独自の画風を模索し続けたポール・セザンヌの長い旅

20世紀の巨匠、ピカソをして「まるで我々みんなの父のようだ」と言わしめたポール・セザンヌ。人間嫌いで社交下手のこの画家の名は、美術史に燦然と輝くことになりました。故郷の南仏プロヴァンスで、自らの画風の確立に没頭したその人生とはどのようなものだったのでしょうか。
 
 
“近代絵画の父”となった孤高の革命児セザンヌ

社会の担い手が貴族から市民へと移りつつあった19世紀のフランス。芸術の世界にもまた、旧来の歴史画や宗教画、神話画にとってかわる新たな潮流が押し寄せていました。1860年代以降、画家たちは明るい光を求めて、戸外へとカンバスを持ち出します。鮮やかな色彩と大胆なタッチを使って、日常の風景を切り取る“印象派”の誕生です。美術史上、大きな変革を迎えていたこの時代、セザンヌはただ一人、さらに新たな道を歩き出していました。画家が、その人生を賭して追求したもの――。それは、うつろいやすい外観に惑わされず、その内にある“本質”を描き出すことでした。そのためセザンヌは執拗なまでに、自然や人物、静物など、ひとつのモチーフに向き合いました。肖像画を制作する際には、モデルに100回以上もポーズをとらせ、リンゴを描く際には、そのリンゴが腐るまで描き続けたことは、あまりにも有名です。そして画家はついに、自然を円筒や球、円錐によって捉えたり、複数の視点から見たモチーフをひとつの平面に表現したりという、斬新な手法に到達します。1895年、パリのヴォラール画廊で開かれた初の個展では、すでに“巨匠”となっていたモネやルノワール、ピサロにまじり、次世代を担う若い芸術家も画期的な技法と、モチーフの本質を描き切ったその作品に目をみはりました。この時、セザンヌ56歳。画家を志し、パリに出てから34年目にして初めてつかんだ“成功”でした。
このセザンヌの革新的な画法は、のちに20世紀絵画を牽引するピカソやブラックの「キュビスム」などに大きな影響を与えることになります。彼は初の個展が開かれた翌年、若い友人らにあてた手紙のなかにこう記しました。「私は多分この世にくるのが早すぎたのでしょう。私は、……むしろあなた方の世代の画家だったのです」。
 
 
エックスの輝く自然のなかで友と過ごした少年時代

ポール・セザンヌは、1839年、強烈な陽光が降り注ぐ南仏の古都、エックス・アン・プロヴァンスに生まれました。父のルイ・オーギュストは商才に長けた人物で、セザンヌが9歳の頃、帽子販売業で成した財を元手にエックスで唯一の銀行を設立します。成功を手に入れ、土地の有力者となった父にとって、ラテン語やギリシャ語をこなし、ボードレールを愛読する優秀なポールは、自慢の一人息子でした。セザンヌは13歳になると、良家の子息が通うエックスのブルボン中学に入学します。ここで内気なセザンヌ少年は、やがてその人生を左右するほどの親友を得ることになります。将来の売れっ子小説家、エミール・ゾラと天文学者として名を成すジャン=バティスタン・バイユです。3人は授業を抜け出してはプロヴァンスの山野に遊び、川で泳ぎました。文学を語り、美術を論じる親友との穏やかな日々。絵を描くことが大好きな少年の心には、友と歩いたこのプロヴァンスの風景が深く刻み込まれることになったのです。
 
 
憧れのパリでの挫折と親友ゾラとの訣別

画家になることを夢見ながらも父に抗うことができず、地元の法科大学に通うセザンヌを励ましたのは、パリに越していった親友のゾラでした。22歳になったセザンヌは、父を説き伏せ、画家修業のため憧れのパリへ旅立ちます。しかし、パリでセザンヌを待っていたのは、失望の日々でした。ゾラと再会し、のちに長くセザンヌを支援することになる先輩画家ピサロとの出会いはあったものの、華やかな都会の空気は、田舎育ちの青年にとって、心地よいものではありませんでした。さらにエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の入試にも失敗。セザンヌはわずか5ヵ月でパリからエックスに逃げ帰ります。しかし、彼が絵の道を捨てることはできませんでした。その後もパリと故郷を往復しながら、サロン(官展)に出品を続けるものの、ことごとく落選。セザンヌは画家仲間からも距離を置き、ただ一人自分の内なる世界に閉じこもる苦悩の日々を送ります。そしてその姿とは対照的に、パリの文壇には、名声を獲得した華やかなゾラの姿がありました。
1886年、セザンヌ47歳の春、プロヴァンスの画家のもとに一冊の本が届きます。ゾラの新作『制作』です。画家を目指す主人公が世に出ることなく、自らの作品の前で命を絶つ物語……。それは明らかにセザンヌをモデルにしたものでした。少年時代をともに過ごした親友の作品を“裏切り”ととった画家は、深く傷つき、ゾラとの訣別を決意します。そして孤独を友として、さらに自らの画風の確立に没頭していったのです。
 
 
プロヴァンスの自然に抱かれ67年の生涯を閉じる

初の個展で成功を収めたのちも、セザンヌはその賛美に甘んじることはありませんでした。アトリエから、毎日のようにエックス近郊の自然を求めて出かけていく老画家。ビベミュスの石切場サント・ヴィクトワール山、幼い頃ゾラやバイユとともに水遊びに興じたアルク川……。現在残る画家の傑作の多くが、こうしたプロヴァンスの地で生まれたものです。
時を惜しむかのように絵筆を握る画家のもとに、しかし人生の終焉は確実に近づいていました。1906年、嵐に打たれながら数時間も戸外制作を続けたセザンヌはついに倒れ、その8日後、67歳で帰らぬ人となります。孤独のなかで故郷の風景を描き続けた画家、セザンヌ。この“近代絵画の父”は、愛するプロヴァンスの自然に抱かれて、いまもエックスのサン・ピエール墓地に眠っています。
 
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