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ピエールフォン城マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

皆さま、ヴィオレ=ル=デュック(1814-1879)という建築家のことをご存知でしょうか? ヴィオレ=ル=デュックは、19世紀フランスを代表する建築家で、昨年11月から今年の5月まで、パリの建築文化財博物館で、その生誕200周年を記念する特別展が開催されていました。彼は、中世建築を蘇らせたことで建築史にその名を刻みました。彼の功績がなければ、カルカッソン館やノートルダム=ド=パリをはじめとする数多の歴史的建造物は、朽ちるに任されていたことでしょう。本日、皆さまをご案内するピエールフォン城もヴィオレ=ル=デュックによって再生された建築。彼がそのクリエイティビティを遺憾なく発揮した代表作のひとつといえましょう。

ピエールフォン城は、コンピエーニュとソワッソンの間、パリの北100kmほどの岩山の上に、ピエールフォン村を見下ろすようにそびえ立つ城塞です。フランスでもっとも大きな城塞であり、防衛のための建築物として、また中世の封建社会の城郭ならではのあらゆる性格を備えています。ヴィオレ=ル=デュックは先見の明を持った建築家であったのでしょう、20年以上も続く大規模な再建工事によって、この城を保護しようとしました。そして、当初は廃墟同然であった城郭から中世という時代を解き明かし、中世末期の建築がどのようなものであったかを明らかにしていったのです。

この堅牢な城塞は14世紀末、フランス王シャルル6世(1362-1422)の弟ルイ・ドルレアン(1372-1407)によってパリ北方の防衛のために建設されました。コンピエーニュの森の端という立地は、オルレアンにとっては宿敵であるブルゴーニュ公所有のふたつの領土、フランドルとブルゴーニュの監視に最適だったのです。しかし、貴族たちの陰謀に終止符を打つことを望んだルイ13世(1601-1643)は1616年、国王に敵対するフランソワ=アンニバル・デストレ(1573-1670)の所有するこの城を攻囲。城塞は壊滅的な被害を被ることになりました。その後、2世紀近くもの間、打ち捨てられていた城は、1813年、ナポレオン(1769-1821)の所有となります。

19世紀、シャルル10世(1757-1836)やルイ=フィリップ(1773-1850)の治世下になると、ピエールフォン村は硫黄泉や廃墟のロマンチックな魅力で知られる保養地となります。カミーユ・コロー(1796-1875)も、1834年から1866年にかけて廃墟を描いていますが、トルバドゥール絵画と呼ばれる、廃墟をモチーフにした絵画が流行し、廃墟ブームが起こっていたのです。そして1848年、ピエールフォン城は歴史的建造物に指定されました。

1857年、ナポレオン3世(1808-1873)は、ここを贅を尽くした皇帝の住居として改修し、舞踏会を開いたり、武器や甲冑のコレクションを展示したりすることに決めました。そこで、白羽の矢を立てたのが建築家ヴィオレ=ル=デュックでした。幼い頃ピエールフォン城を訪れ、その中世建築の美に魅せられていたヴィオレ=ル=デュックは、300人の労働者を動員した桁外れの改修工事の陣頭指揮を執ることとなったのです。しかし、ヴィオレ=ル=デュックの手による改修工事は、その後、数々の批判の的となりました。修復された城はさまざまな要素のつぎはぎとみなされたからです。

事実、ヴィオレ=ル=デュックは15世紀の要塞をそのまま“復元”したわけではありませんでした。彼は近代的な素材、とくに金属の骨組みを使うなどして革新的な改修工事を成し遂げました。とりわけ城の内装については、修復というよりも創意工夫に富む仕事を残しています。伝統的なモチーフを刷新し、50年後のアール・ヌーヴォーを予告するかのような植物のモチーフを主体として、バラエティーに富んだ先駆的な装飾を採用したのです。外観は、全体に創建当時のままのかたちが尊重されています。

Update : 2015.8.1

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