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ポン=タヴァン美術館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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市当局がホテル・ジュリア別館を新しくポン=タヴァン美術館にすることを決めたのはようやく2007年になってからのことでした。建物に大きな変更を加えて古い建物の保存と新しい建築とを両立させたことで、スペースは広くなりましたが、家族的な雰囲気も失われていません。美術館はガラスの入った大きな開口部によって外に開かれて、きれいな風景式小庭園につながっています。美術館が所蔵するシャルル・フィリジェ(1863-1928)の作品《岩景、ル・プルデュ》(1891年)から構想された、「フィリジェ庭園」です。

美術館を訪れた方はまず2階へ上がり、ホテルの食堂であった「ジュリアの間」へと向かいます。すっかり改装されましたが、巨大な石のマントルピースや彫り物を施した板張りの壁、天井の化粧漆喰の装飾が、19世紀末の洗練されたスタイルを思わせます。3つのシャンデリアを組み合わせた新しい照明は高名なフランス人デザイナー、マタリ・クラッセによって作られました。ないものといえば、テーブルだけでしょう!

美術館の最上階、3階には、常設展示場があり、それぞれ壁の色の異なる約10のセクションに分かれています。暗い色はポン=タヴァン派に先行する作品、明るい色はポン=タヴァン派の作品です。最初の部屋では港町ポン=タヴァンの生活を描くビデオが流されています。市場広場を行き来する古い絵はがきの人々、風車が回り、鐘の音も聞こえます。すべてがとても生き生きしています。マリー・リュプロー(1848-1925)の《ポン=タヴァンのアムールの森》(1883年)のようにいくつかの絵画作品も、場所を表すアイコンとして使われています。

ふたつ目のセクションには、外国人芸術家の作品が展示されています。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、スイス人、そして、スカンジナヴィア半島出身の画家たち……。1880年頃のポン=タヴァンには外国人芸術家が100人以上もいました。ここに自画像があるアメリカ人画家のロバート・ワイリー(1839-1877)は、1866年からホテル・デ・ヴォヤジュールに住み着きました。オランダ人、ヘルマヌス=フランシスキュス・ファン・デン・アンカー(1832-1883)とデ・フェルナン・キニョン(1854-1941)が1880年に制作した《下宿屋グロアネックの看板》は、この海辺で仕事をした画家たちの理想の風景を描いた油彩画。何年もの間、下宿の扉の上に掛けられていたものです。この展示室には大きなデジタル本が備えてあり、証言や書簡を通してこの時代の宿屋や下宿での生活に触れることができるようになっています。マリー=ジャンヌ・ル・グロアネックの家のゴーギャンの寝室の壁の化粧や、印象派風の海を背景にしたアトリエの扉が彼らの暮らしぶりを偲ばせます。

廊下に貼られた年表をご覧いただければ、芸術家たちがいつポン=タヴァンへ往来したのかお分かりいただけます。ゴーギャンは1886年から1894年までの間、頻繁に来ていました。ゴーギャンは彼を取り巻く人々にとって、まさに近代(モデルニテ)を体現した芸術家でした。そして、1888年のエミール・ベルナールとゴーギャンとの出会いが大きなきっかけとなって、絵画を革新する新しい美学が誕生することになりました。それが、「総合主義」です。これは、画布の上に単色に置いた純色を暗色で縁取るステンドグラスのような技法に基礎を置いています。そして、作品はそれを描く芸術家の心の内面を反映したものだと考えました。

美術館の真ん中には、ゴーギャンに捧げられた陳列室があり、ベラム紙に印刷したジンコグラフィ(注:版画の一種)による「ヴォルピーニ連作」が展示してあります。1889年の万国博覧会の間、同じ名前のカフェに展示されていたものです。《海の惨事、ブルターニュ》(1889年)と《ブルターニュの浴女》(1889年)は、さらに急進的な総合主義へと彼の芸術が進化したことを示しています。模様の上に描かれた、パステル画の《ブルトン人の女の二つの頭》(1894年)は、彼の友人モフラ(1861-1918)に献じられたものですが、画家の内的世界の表現を見せているという点で、この美術館の象徴となる作品と考えられています。

Update : 2016.10.1

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