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カミーユ・クローデル美術館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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2番目の展示室では、《読書する若い娘》のロストワックス鋳造を例に、彫刻作品の制作の手順とさまざまな技法が教育的に解説されています。

中央のパティオは、まるで、大きな石膏像を制作するために天井を高くとったアトリエのよう。ここには公共空間を飾ることを目的とした国家による注文作品が数多く展示されています。例えば華々しく威厳のあるポール・デュボワ作《ジャンヌ・ダルクの騎士像》(1889年)。ジャンヌは儀式ばった戦いの姿勢で天を仰いでいます。堂々としたモニュメント、アルフレッド・ブーシェ作《オリエ医師》(1904年以前)は、彫刻がいかに偉大な人物を形容するという目的に叶っているかを示しています。

新フィレンツェ派の潮流は、次の展示室でそのリーダー、ポール・デュボワの作品を中心に紹介されています。ルネサンス芸術に大きな影響を受けた彼の代表作、優美な《15世紀フィレンツェの歌手》(1865年)をご覧になってみてください。隣接する小さな部屋では、オーギュスタン・モロー=ヴォーティエ(1831-1893)作のブロンズ、象牙、大理石製の魅力的な作品《15世紀の衣裳をつけた若いフィレンツェ人の胸像》が見逃せません。

ここでは、女性の理想像の変化を通じて、彫刻のさまざまな様式を見て取ることができます。ポール・リシェ(1849-1933)作の《三位一体》(1903年以前)では、3体の裸婦はルネサンス期と近代の異なる時代の美の規範に基づいて表現されています。アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)の象徴主義的作品《暁》(1894年)と《黄昏》(1895年)は、ある一軒の家のために制作されたものです。その隣には《金羊毛を奪うイアソン》(1876年)をはじめ、アルフレッド・ブーシェの神話や寓意的作品が続き、ガラスケースには非常に官能的なロダンの石膏像《牧神とニンフ、またはミノタウルス》(1885年頃)が飾られています。こうして作品を見ていますと、彫刻家には、それぞれ好みのテーマがあることに気付かされます。例えば、アルフレッド・ブーシェは、磨かれた石膏に古色をつけた《大地へ》(1891年頃)で、田園生活を賛美し、大地で働く農民を力強い英雄として表しています。

モニュメンタルな作品とは別に、よりプライベートな空間のために作られた彫刻作品もあります。例えば、釉をかけた石器の素晴らしい壺、ジュール・ダルー(1838-1902)作の《子供たちの輪舞》や、石膏と蝋でできたマケット、ポール・デュボワ作の《慈愛を表現したメダルの装飾のある暖炉》(1878年頃)などは、より親密な空間にふさわしい作品といえましょう。

2階では、動きの表現に焦点が当てられています。アルフレッド・ブーシェ作の《ゴールへ》(1930年)では、腕を前に伸ばし、足を後ろに持ち上げた3人の陸上選手の体の動きが表されています。19世紀に非常に流行したダンスも忘れることのできないテーマです。ロダンの小さな石膏像は身体の柔軟さを非常に見事に捉えた作品です。次の空間はロダンのアトリエ。ロダン、そして《シャクンタラー》制作中のカミーユ・クローデルの写真が飾られ、アントワーヌ・ブールデルの《剣を持った横たわる戦士》(1909年)のように、ロダンとともに制作したほかの彫刻家たちの作品も展示されています。

最後の4つの展示室には、カミーユ・クローデルのコレクションが展示されています。コレクションの一部は姪で伝記作家のレーヌ=マリー・パリスが所有していたものです。1876年から1879年、クローデル一家はノジャン=シュル=セーヌに居を定めました。カミーユは12歳にして彫刻の才能を発揮し始め、彼女の父の友人であった彫刻家アルフレッド・ブーシェに見いだされます。1882年、カミーユは家族を説得し、アカデミー・コラロッシの授業を受けるためにパリに移ります。国立美術学校では当時まだ女性の入学が認められていなかったのです。この年、カミーユはイギリス人の若い芸術家たちとアトリエを共有します。しかし、彼らの師アルフレッド・ブーシェはイタリアに行くことになり、オーギュスト・ロダンに職を譲ります。そして翌年、カミーユはロダンのアトリエで修行することになるのです。カミーユの仕事ぶりに驚いたロダンは、彼女に《地獄の門》や《カレーの市民》をはじめとする作品制作の精緻な作業を任せました。彼女はロダンのアシスタント、ミューズ、そして愛人となります。情熱的な愛は10年間続き、その中で彫刻は常に中心的な場所を占めていました。しかし、ふたりの関係は1898年から翌年頃に破綻。カミーユは師ロダンと距離を置き、自身の制作に没頭して独自のスタイルを発展させてゆきます。その後も経済的な困難や深刻な精神障害にもかかわらず制作を続けましたが、自分の作品の一部を破壊した後、1913年に精神病院に収容されます。そして、そこで亡くなるまでの30年間を過ごし、彫刻の世界から完全に離れることになってしまったのです。

Update : 2017.8.1

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