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オスマン男爵は、近代社会という新しい時代に適応するように都市を作り変えるという都市工学者としての仕事を成し遂げました。入植者のための鉄製の組み立て式住居の模型(1889年頃)を開発したモロー兄弟は、キットになった家という新しい建築方法で、産業革命と新しい素材の可能性を示しています。

また、建築家ピエール・パトゥーが設計したヴィクトール通り3番地(パリ15区、1929-1934年)の住居は、大型客船に着想を得たもの。上の階にいくごとに部屋数が少なくなる構造や室内の間取りなど、船室を思わせるスタイルで、1930年代に大流行しました。

ドランシー市の団地シテ・ド・ラ・ミュエット(セーヌ=サン=ドニ県、1931-1936年)では、建築家のユジェーヌ・ボードゥアンとマルセル・ロッズが、コンクリート製の団地の最初の一例を作り、戦後の大規模なプレハブ工法に先鞭をつけました。

都市人口の増加は、新たな需要を生み、ロベール・カムロ、ジャン・ド・メリー、ベルナール・ゼルフュスによる国立産業技術センター(CNIT、ラ・デファンス地区、1952-1958年)のような大規模な公共建築が作られます。このセンターは大スパンの丸屋根が印象的です。

クールバルブ通り33番地(パリ13区、1958-1960年)のタワー住宅(トゥール・ダビタシオン)は、建築家エドゥアール・アルベール、ロジェ・ボワロー、ジャック=アンリ・ラブルデットによって、パリで最初に作られた高層ビル。途中3階にわたって骨組みの柱が露出しているところが特徴です。

メゾン・ドゥ・ラ・ラジオ(パリ16区、1952-1963年)は、丸い形がとても印象的です。建築家アンリ・ベルナールのアイコンともいえる作品であると同時に、ラジオ放送に関わるものを全てまとめた非常に機能的な建物として、この時代を象徴する建物でもあります。

最後に、マルセイユにあるル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオン(集合住宅)(1947-1952年)の一室全体を再現した部屋がありますから、ぜひ、ご覧になってみてください。もっとも完成され、もっとも画期的とされるこの部屋の構想が、いかに近代的であったかを示しています。

三つのギャラリーからなる建築・文化遺産センターは、建築分野のミュゼとしては、他に類を見ないユニークなものです。文化遺産としての建築と、現在の建築をつなぎ、同じ建物内に学校、建築センター、美術館、図書館、史料館をまとめたこの施設は、専門家向けであるとともに、一般にも開かれています。過去だけでなく、現在と未来にも開かれた場所──とても成功した施設だと言えるのです。

友情を込めて。

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Update : 2020.4.1

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