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ビアリッツ歴史博物館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。バックナンバーを読む
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けれども、1929年の大恐慌、それに続く第二次世界大戦でビアリッツは衰退してしまいます。1944年には爆撃の犠牲ともなりました。町が再び活気を取り戻すのは1950年代末のことです。観光が発達したことで、いくつかのスポーツや芸術活動が盛んになり、町は生まれ変わっていきます。ビアリッツは、各国の王族(ルーマニアのミハイ1世、エジプト国王ファルーク1世)や映画スターたち(リタ・ヘイワース、ゲイリー・クーパーなど)などの著名人らを魅了し、「海辺の女王」の称号を保ちながら、スポーツの町ともなったのです。展示ケースには、パラアンチャ(ラケットの一種)や黒いボール、システラ(柳の枝で編んだグローブで、ボールを打ち返すのにつかう)といったこの地方の典型的な球技「バスク・ペロタ」をプレイするのに必要な道具やゴルフのクラブ、ボクシングのグローブ、ラグビーボール、テニスラケット、また乗馬の重要性を思い起こさせる鞍など、さまざまなスポーツの道具が並びます。また、ウォータースポーツも忘れてはなりません。ビアリッツは現在、ヨーロッパにおけるサーフィンの中心地なのですよ。

ビアリッツは、芸術の町でもあります。ミュゼにはジャン・コクトーが主催した映画祭「呪われた映画」や、バスク・バレエ、ピカソなどのアーティストに関する品々も展示されています。ストラヴィンスキーがこの地で書いた楽譜もご覧いただけます。芸術的な発展とともに町の規模は拡大し、公共建造物や教会、カジノ(市営カジノ、カジノ・ベルヴュー)、ホテル、別荘といった豊かな建築物を備えるようになりました。ベルエポックのスタイルから、アングロ・ノルマン様式、さらにはバスク様式に至るまで、この町に点在する建築様式の多様性には驚きを禁じ得ません。この多様性こそが、ビアリッツの豊かさの源なのです。数多くの写真がそのことを示しています。

ビアリッツは1765年以来、海水浴場として知られていました。木版画《ビアリッツの海水浴の午後》に描かれた、浜辺の人々のエレガントな装いをご覧ください。海辺の散歩や、穏やかな気候は、ヴィクトル・ユゴーなどの著名人に愛されてきました。そして、少しずつ、海水浴の愛好者が増えていったのです。ナポレオン3世治世下では、浜辺まで続く舗装道が整備されました。仕事を失った漁師たちは、海水浴のガイドへと職を変えました。1844年には、ライフガード協会が作られています。ミュゼにはライフガード協会役員会の議事録が展示されています。それを見てみますと、ライフガード協会の役割は、日の出から日没まで3つの海辺(大浜辺、旧港、バスク海岸)を見守ることで、協会は、海や潮の流れの状態に応じて、海水浴できる場所を定めていたのです。3つの海辺は、アンドレ・グリマール(1868-1952)の写真に基づく鮮やかな色彩の美しい水彩画に描かれています。1900年、水着はウール製で、男性用が縞模様、女性用は赤でチュニックとロング・パンツの組み合わせと決まっていたのですって!

ビアリッツは今日なお、貴族的かつコスモポリタンな雰囲気に満ちていて、バスク海岸で最もエレガントなビーチリゾートと言えましょう。この町と海との親密な関係が、この町を世界に開かれた場所にしているのです。自然の景観や文化遺産に力を入れた、強いアイデンティティを持った町でありながら、人々を快く迎え入れています。インフラの質がよいことから、今日では国際的な催し(G7、ダンスフェスティバル、音楽祭、映画祭)が行われる場所としても知られています。観光地としての魅力を備えたこの町には、訪れるべき場所がたくさんありますが、この博物館もそのひとつに数えられるでしょう。

友情を込めて。

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Update : 2021.4.1

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