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パリ市立プティ・パレ美術館「イヴ・サンローラン」展 backnumber
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お次は、1940年代という戦争の時代へ回帰したことで非難の的となった、かの有名な1971年夏コレクションの展示室を見てみましょう。この年のコレクションは、サンローランが、売春をほのめかした少々挑発的な作品が揃いました。マネキンはいずれも厚化粧、ベルベットのターバンを巻き、足元はウェッジヒール、裾丈はきわめて短い──体の線をくっきりと見せる水着にグリーンフォックスのコートというスタイルは、そのよい例です。その先にあるガラスケースでは、サンローランがいかにして、女性の体の美しさのベールを脱がしていったかを紹介しています。中でも、ウエストまで透けたあの大胆なモスリンのドレスは秀逸といえましょう。

1966年、サンローランとピエール・ベルジェはモロッコのマラケシュに一軒の家を購入します。ここで、サンローランはアルジェリアでの幼少時代に目にした色と光を再び見出したのです。サンローランは旅を好みませんでしたが、その想像力と書物から得た教養によって、素晴らしくエキゾティックなコレクションを創り出しました。見事に展示されたこれらの作品を見ていると、わたくしはあたかも、活気に溢れ、夢のように美しい光景が広がる色彩の世界へと迷い込んだような錯覚に陥ります。1962年以降は、インドやアフリカ、ヨーロッパや中国といった国々からインスピレーションを得たコレクションが発表されています。1976年の秋冬コレクションには、玉虫色の豪華な生地を使ったロシアコレクションを発表し、大成功を収めました。1994年の冬のコレクションでは、日本の着物をベースにした夜会服も登場したのですよ!

サンローランは芸術をこよなく愛し、ブラック(1882-1963)や、ゴッホ(1853-1890)、マティス(1869-1954)などの芸術家にオマージュを捧げたいと願っていました。1965年の秋冬コレクションでは、ピエ・モンドリアン(1872-1944)を参照した色とりどりのウールジャージーのドレスを制作しました。こうして、サンローランは絵画の題材をテキスタイルの題材に移し変え、絵を生きたものにするという偉業に成功したのです。

グレーのインテリアが素晴らしい豪華なボールルームは、ヴィスコンティ監督(1906-1976)の映画『山猫』(1963)の舞踏会のシーンを表した空間。部屋にはワルツの調べとマリア・カラスの崇高な声によるオペラのアリアが響き渡っています。ドレスはいずれも豪華なものばかりで、サンローランがノスタルジックな思いを抱いていたという、贅を尽くしたパーティを髣髴とさせます。まるで夢の中にいるように、魔法をかけられたように、夜会(ソワレ)へと誘われるわたくしたち──マネキンが動き回ったり、ダンスをし始めたりしたら、どういたしましょう。

これとは対照的に、真っ黒な壁には完璧なカッティングのスモーキング・スーツがいくつも掛けられています。スーツは互いに似かよっていながら、どれも異なっています。この象徴的な作品はまたたく間に成功を収め、サンローランはコレクションのたびにスモーキング・スーツを新しく考案するようになりました。このように、サンローランは黒を特別なものと見なしたデザイナーですが、例えば壁にピンで留められた、明るい色や時に非常に対照的な色の生地見本をご覧になれば、彼が偉大なる色彩画家でもあったことがお分かりいただけるでしょう。ピンクとオレンジ、イエローとピンクというような、驚くべき組み合わせを試みました。

1962年、彼は初のコレクションのため、そしてまた女性に対する愛情表現のために「クール」というジュエリー作品をデザインしました。このジュエリーは、いつのデフィレでも、彼がとりわけ愛着を持つ作品を着たモデルが身に着けるものなのです。

すでに大成功を収めているこの特別展は、「お別れのデフィレ」(2002)と呼ばれる最後のデフィレの感動的な映像で締めくくられます。ラヴェルのボレロの魅惑的な音楽に合わせて、この非凡なクチュリエによる、どこまでも大胆で現代的な作品のビートを刻みます。サンローランは、誰もが認めるその独創的で上品なスタイルによって、変わりゆく世界に女性モードを適合させたのです。これは、女性にとってなによりの幸運だったといえましょう。

親愛をこめて。


▲プティ・パレの庭
© A. de Montalembert

▲プティ・パレのエントランス
© A. de Montalembert

▲プティ・パレの柱廊と丸天井
© A. de Montalembert

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