Dossier special - 国内の特集

  • 1.ヘレン・シャルフベックって誰?
  • 2.ゆかりの地とともにたどるシャルフベックの軌跡
  • 3.見逃せない作品をキュレーターがナビゲート

東京藝術大学大学美術館 ヘレン・シャルフベック 魂のまなざし展

シャルフベックは絵筆を携えて多くの地を旅し、その地に暮らす人々を描き、そして恋をしました。友人に宛てた手紙に「旅をして、見て、感化された我が青春のあらゆるすばらしいこと!」と綴ったシャルフベックにとって、旅は、その言葉通り、インスピレーションを刺激する大切な機会だったのです。才能あるひとりの女性がたどった光と影の人生、そして作品を、ゆかりの地とともに紹介します。

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1.ヘルシンキ

シャルフベック誕生の地(1862年7月10日)。父は鉄道機関工場の事務局長を務めていた。ヘレンは3番目の子どもだった。

▲展覧会の冒頭を飾る15歳頃の作品《静物》(1877年頃 オストロボスニア美術館蔵)。「メメント・モリ(死を忘れるな)」というラテン語の警句を主題とした作品で、シャルフベックの早熟な才能が発揮されている

2.パリ

1880年に描いた《雪の中の負傷兵》がフィンランド芸術協会のコレクションとなり、その奨学金で初めてパリへ。画塾アカデミー・トレラで学び始める。1883年には初めてパリのサロンにも参加した。

▲18歳の年の作品《雪の中の負傷兵》(1880年 フィンランド国立アテネウム美術館蔵)。「この作品で得た1,500マルッカの奨学金を持ってシャルフベックはパリに向かいました」と解説する本展監修の佐藤直樹氏

3.ポン=タヴェン

1883年の夏をポン=タヴェンで過ごしたシャルフベックは、ひとりのイギリス人画家と恋に落ち、婚約する。しかし2年後、婚約者からの1通の手紙によって一方的に婚約破棄を言い渡された。失意の底に沈んだシャルフベックは、友人たちに婚約者の名を記した手紙をすべて捨てるように頼んだため、そのイギリス人画家の名は謎のまま残されている。

▲この《子供を抱く女性》(1887年 フィンランド国立アテネウム美術館寄託)は、同展にも出品されている《母と子》の下に縫い込まれていたことが近年判明したばかりの作品

4.ウィーン

1894年、ウィーンへ旅に出たシャルフベックは、ウィーン美術史美術館を訪れ、ホルバイン(Hans Holbein the younger/1497-1543)やベラスケス(Diego Velázquez/1599-1660)の作品を模写した。新興国だったフィンランドには、オールドマスターの絵画がほとんどなかったため、芸術協会は自国の優秀な画家たちに巨匠の名画の模写を依頼した。シャルフベックもそうした画家のひとりだった。

▲シャルフベックが各国の美術館で描いたオールドマスターの模写も出品されている

5.ヒュヴィンガー

1895年から断続的に素描学校で教鞭をとっていたシャルフベックだったが、病弱だったため、1902年教職を辞し、母親とともにヘルシンキの北にあるこの地に引っ越した。ここでは、彼女のモダンなスタイルが花開くとともに、モデルの内面や本質にまで迫る作品が多く生まれることになった。

▲ホイッスラー(James McNeill Whistler/1834-1903)の代表作を手本にしたかのような《お針子(働く女性)》(1905年 フィンランド国立アテネウム美術館蔵)。実際、シャルフベックはホイッスラーをもっとも尊敬する画家のひとりと言っていた

6.タンミサーリ

1918年、フィンランドで内戦が勃発すると、この地に移り静かに絵を描いて過ごした。1915年以来、親交を結んだ画家で作家のエイナル・ロイター(Einar Reuter/1881-1968)に密かに恋心を抱いていたが、19歳年下の彼は1919年、突然ほかの女性と婚約。シャルフベックはショックを受け、心臓を病んで病院で過ごすことになった。

▲ゴーギャン(Paul Gauguin/1848-1903)の色彩、モディリアーニ(Amedeo Modigliani/1884-1920)の構図を彷彿とさせる《ロマの女》(1919年 フィンランド国立アテネウム美術館蔵)。自らの心情を吐露するかのように「一人の子供のような存在の彼女は、自分にとって一番大事な人を誰かに取られたとき、大きな声で泣くのです」とロイター宛ての手紙に綴っている

7.ヌンメラ

1942年、ヌンメラの療養所に入ったシャルフベックだったが、80歳を迎えてなお、その創作意欲は衰えることなく、看護婦たちをモデルに多くの作品を描き続けた。同年、スウェーデン王立芸術アカデミーの自由芸術部門の会員に選出。女性会員はシャルフベック唯ひとりだった。

▲療養所では自室に運ばれる果物などをモティーフとした静物画も多く制作された。《黒いりんごのある静物》(1944年 ディドリクセン美術館蔵)では、腐ったりんごを画面から外すことなく描いている。「まるで死にゆく自分と重ね合わせて描いているよう」と佐藤氏

8.サルトショーバーデン

1944年、画商ステンマン(Gösta Stenman/1888-1947)の説得で、スウェーデンのサルトショーバーデンに引っ越す。温泉療養ホテルに居を定め、死と対話するかのように20点以上の自画像を制作した。忍び寄る死の足音を振り払うかのように、この時期には膨大な作品が描かれた。シャルフベックは1946年、1月23日、この地で亡くなる。83歳だった。

▲晩年、シャルフベックは自画像を描くかたわら、自作の再解釈やセザンヌ(Paul Cézanne/1839-1906)やエル・グレコ(El Greco/1541-1614)の作品を研究し、旺盛な創作意欲を見せた。写真左は《エル・グレコの自画像》(1944年 サラ・ヒルデン美術館蔵)

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