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画家を夢見てパリに出てからも、セザンヌは故郷プロヴァンスをこよなく愛し、終世、その自然に魅了され続けた。彼は、幼い頃に親しんだプロヴァンスの風景と再び対峙することによって、その独自の画風を確立することができたのである。セザンヌがプロヴァンスで制作に励んだ時代とそのモチーフの変遷を追う。 |
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1861〜1871年(22歳〜32歳)
パリとプロヴァンスを往復する日々
この時代、セザンヌはパリを中心に制作を行い、のちに(1874年以降)「印象派」と呼ばれることになる画家たちに出会う。一方、プロヴァンス滞在中には、そのほとんどを家族の別荘ジャズ・ド・ブッファンのアトリエで過ごす。ここでは、ロマン派的な壁画を制作。また18世紀に流行した装飾的な構図に影響を受け、大型の風景画なども描いた。パリとプロヴァンスを往復する日々は、1870〜71年頃、画家がレスタックに疎開をすることによって終わりを告げる。 |
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1877〜1882年(38歳〜43歳)
レスタックでの制作活動
プロヴァンスを長く留守にした後、再びセザンヌが頻繁にプロヴァンスに帰郷し始めた時代。彼の訪問は不定期ではあったが、プロヴァンスに対しての彼の想いは変わらないものだった。画風はいまだ印象派的であったが、制作の根底にある理論は、印象派のものとはまったく異なるものであった。目の前に広がる溢れる色彩、木々や岩、そして海──。これらの光景すべてが調和をみせるプロヴァンスこそが、自らの作品を変化させことになるとセザンヌは確信する。この期間、彼はおもにレスタックで制作した。 |
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1882〜1888年(43歳〜49歳)
プロヴァンスの風景に魅了される
この期間、セザンヌは故郷プロヴァンスを描くことに励んだ。レスタックやガルダンヌ、ジャズ・ド・ブッファン、そしてモンブリアンは、セザンヌが好んで風景画を制作した地。栗林を抜けてジャズ・ド・ブッファンを散策し、ベルヴュの丘から見たサント・ヴィクトワール山が思いもかけないほど美しいことを発見。その後この山塊は、セザンヌ芸術の重要なモチーフのひとつとなった。また、エックスからほんの2、3マイルの距離にあるガルダンヌでは、「キュビスム」の前進ともいえる作品を制作。セザンヌにとって、フランスの画家が通る王道であるローマへの絵画修行の旅は必要なかった。プロヴァンスの風景は、プッサンやクロード・ロランがイタリアで描いたような理想的な古典的要素をすべて備えていたからである。 |
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1888〜1900年(59歳〜61歳)
シャトー・ノワール、ビベミュスの石切場と出会う
パリやスイス、フランス南部など、多くの旅を経験した時代。また、シャトー・ノワールとビベミュスの石切場というふたつの重要なモチーフを発見した時代でもある。切り立った崖に囲まれ、うっそうとした松林の先に現れるネオゴシック様式のシャトー・ノワールは、画家の混沌とした迷いに答えを与えるものとなった。また古いビベミュスの石切場は、エックスで使われる建築石材を切り出すために使われていた場所で、コロッセオの遺跡などよりもさらに古代の歴史を喚起させるものであった。 |
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1900〜1906年(51歳〜67歳)
エックスに拠点をおいた晩年
セザンヌの晩年にあたるこの期間、彼はエックス・アン・プロヴァンスに拠点を置いた。ブルゴン街のアトリエは、大規模な水浴画シリーズの制作には適していなかったため、セザンヌはローヴの北に新しいアトリエを造ることを計画する。ここで画家は、後期の静物画や肖像画(『庭師ヴァリエ』)、水浴画や後期のサント・ヴィクトワール山の絵に見られるような、光や色彩、構図、そして形態の調和という、いまだ誰も試みたことがないスタイルに到達した。
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