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オテル・ドゥ・ラ・マリーヌ(海軍館)マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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パリの中心、コンコルド広場にある象徴的な建物オテル・ドゥ・ラ・マリーヌ(海軍館)がこの度、一般公開を再開しました。修復の委託を受けたのはフランス国立文化財センター。フランスの職人技を結集させ、在りし日の輝きを取り戻したのです。修復にあたっては、でき得る限りオリジナルの装飾を残すことが優先されました。壮麗な装飾が施されたオテル・ドゥ・ラ・マリーヌは、現在ではパリでは必見の建造物のひとつとなっています。18世紀の豪奢な雰囲気を体感できる絢爛たる建築は比類なきもので、コンコルド広場を望む素晴らしい眺めも魅力です。フランス革命までは王室の家具調度品管理所でしたが(当時から部分的に海軍が使用しており)、1806年以降は、200年以上にわたって全館が海軍省管轄の建物となったのでした。

啓蒙の世紀の趣味を反映したオテル・ドゥ・ラ・マリーヌは、ロワイヤル通りの反対側にあるオテル・クリオン同様、国王の建築家アンジュ=ジャック・ガブリエル(1698-1782)によって設計されました。どちらもルイ15世(1710-1774)の希望通り、広場を称えるために建てられたのです。というのも、ここにはエドム・ブシャードン(1698-1762)に依頼したルイ15世の騎馬像が置かれることになっていたからです。そして1765年、国王は王政の威信を高めるため、この建物に「王室家具調度品管理所」を設置することを決定します。ルイ14世(1638-1715)の宰相コルベール(1619-1683)によって創設されたこの機関では、王宮の家具調度品を管理し、著名な家具職人が製作した家具や装飾品の保守管理とその修復が行われていました。美術工芸品、タピスリー、武器、そして王室の宝石類もここに保管されました。1770年には、後のルイ16世(1754-1793)とマリー=アントワネット(1755-1793)の結婚のための祝宴が催されています。家具調度品管理所の所長には、王の任命を受けた者が就任しました。この名誉ある地位に初めて就いたのはピエール・エリザベート・ド・フォンタニユー(1730-1784)です。彼は、王室コレクションの家具を設えた豪華なアパルトマン(居室)を与えられ、1776年には、復活祭から万聖節までの毎週火曜日にその居室を公開する権利を得ています。1784年には、マルク=アントワーヌ・ティエリー・ド・ヴィル=ダヴレイ(1732-1792)が後継者となり、男爵の称号を得て贅沢な暮らしを送っていましたが、それが批判の的となり、革命の最中に暗殺されてしまいました。

1789年、ヴェルサイユを離れたルイ16世は、チュイルリー宮殿に居を移します。海軍省大臣も国王に付き従い、建物の一部を譲り受けます。この激動の時代、王室コレクションの武器は盗難の被害に遭い、1792年には王室の宝石が盗まれ、さらに、ルイ15世の銅像は溶かされてしまいます。
1793年、ルイ16世とマリー=アントワネットは、共和国広場(旧ルイ15世広場)で断頭台の露と消えました。この広場が、1795年にコンコルド広場となったのです。1798年、王室家具調度品管理所は破綻。1806年には、海軍が建物全体を占有し、建物を高くし、拡張しました。
この建物が、往時の輝きを取り戻したのは帝政期のことでした。1804年には皇帝ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の戴冠式を記念した舞踏会がここで開かれています。1836年、ルクソールのオベリスクがコンコルド広場に設置されるのを、国王ルイ・フィリップ(1773-1893)はオテル・ドゥ・ラ・マリーヌのロッジア(開廊)から見守りました。1848年、ヴィクトル・シュルシェール(1804-1893)は、この建物の「外交の間」で奴隷制廃止に署名。1861年には歴史的建造物に指定されました。第二次世界大戦中、この建物はドイツ軍に占領されましたが、終戦後に海軍に返還されました。1989年には、各国首脳がロッジアからフランス革命200周年記念式典に出席しました。

Update : 2022.1.5

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