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Chers Amis
今年はじめてのお便りになりますね。2007年がみなさまにとって幸せにみちた一年になりますように……、そしてまた今年もこのお手紙を通して、皆さまと楽しみを分かち合えることをとても嬉しく思っています。私にとってミュゼを訪れることは大きな喜びなのですから。
今年のパリはとても穏やかで暖かな毎日が続いています。そこで私は、マレ地区までの散歩を楽しみました。その散歩の途中で訪れたのは、ヴィクトル・ユゴー記念館です。

フランス文学におけるもっとも偉大な詩人であり、作家の一人、ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)に敬意を捧げるべく、彼が1832年から16年間暮らしたパリのアパルトマンが、1902年に改装され、美術館となっています。場所はヴォージュ広場の旧ロアン・ゲメネ館の中。今回は、皆さまをこのヴィクトル・ユゴー記念館にご案内することにいたしましょう。
▲ヴィクトル・ユゴー記念館。
©A. de Montalembert
このメゾン・ミュゼを訪れた方は誰しも、ユゴーが紡いだその世界観を手に取るように感じ取っていただけることでしょう。また“がらくた”の山のなかで生きた一人の天才の生涯を想像するのは、じつにワクワクする体験です。彼が「がらくた」と呼んだあらゆるもののなかに、旺盛な好奇心をたたえたユゴーの姿を垣間見ることができるのですから。
     
また、古い町並みを残すパリのなかでも、代表的な歴史地区のひとつであるマレ地区の散歩を楽しみ、ヴォージュ広場という類まれなる“作品”に触れるにも、とてもよい機会です。ヴォージュ広場へ向かわれる際にわたくしがお勧めするのは、サンタントワーヌ通りからシュリー館の中庭を抜け、かつてロワイヤル広場と呼ばれていた有名な広場と一本の小道でつながったシュリー館の庭園を通るルート。シュリー館はルイ13世時代(1601-1643)のすばらしい建物群ですし、17世紀初頭に造られた四辺形のロワイヤル広場は、パリでもっとも古い記念広場です。広場の建物にはアーケードのついた地上階や、石とレンガを組み合わせたファサードが残されており、今も変わることなく往時の優美さと調和を保ち続けています。「緑色をした葉よりも赤いレンガのほうが多い」とはユゴーの言葉ですが、きっと広場を実際にご覧なられれば、この言葉がいかに正しいかがお分かりいただけることでしょう。

ロアン・ゲメネ館は、ロワイヤル広場建設計画がもちあがった際に、国王ルイ13世の顧問であり、地方の財務長官を務めたこともあるイザック・アルノーが建てたもの。17世紀の典型的な建物でした。そして、ド・ゲメネ大公、ルイ・ド・ローアンがこの館を購入したのは1639年のことです。館は広場のなかでとりわけ豪奢なもののひとつに数えられていましたが、残念なことに19世紀初めに売却され、その後幾度も改築されたのち、賃貸マンションに姿をかえました。

ヴィクトル・ユゴーと妻のアデル、そして4人のこどもたちがこのアパルトマンの2階の部屋に越してきたのは、1832年のことでした。一家はここで、ブルジョワ生活を送り始めます。と申しますのも当時30歳だった彼はふたつの成功をおさめ、その名はすでに知れわたっていたのです。その成功のひとつめというのは、「エルナニ事件」(1830年)をめぐるものでした。ユゴーの戯曲『エルナニ』は、その序曲のなかで「リベラリスム」を称賛していることから、文学界では古典主義作品に対する革命とみなされ、大論争を巻き起こしました。
     
▲赤のサロン。
©PMVP
そしてふたつめは、皆さまもよくご存知でいらっしゃる人気長編小説、『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)です。彼はこれらの成功を通して、ロマン主義の押しも押されもせぬ指導者の地位にのぼりつめます。多くの友人や、その時代のパリを代表する文学者や芸術家たちのほとんど、少しだけその面々をご紹介するならば、ラマルティーヌやヴィニー、メリメ、デュマ、ゴーチエ、ネルヴァル、リスト、ロッシーニなどと交流を結び、こうした煌く“才能”は、ユゴーのアパルトマンにあった赤のサロンに迎え入れられます。
ユゴーもこのサロンで『マリー・テュドール』(1833年)や、かの有名な『ルイ・ブラス』(1838年)などをはじめとした、作品をいくつか執筆しています。
         
やがてユゴーはこのアパルトマンで暮らすうちに、自分の内に装飾美術家としての感性をも見出すことになりました。骨董屋や古物商に足繁く通い、自らの感性だけを頼りに、調和を欠いた統一性のない、ちぐはぐな家具を手に入れるようになります。

ところが、そうした申し分のない暮らしを送るユゴーにひとつの裏切りが襲いかかりました。妻アデルの不実が発覚したのです。ひどく傷ついたユゴーでしたが、1833年、自作の舞台『ルクレチア・ボルジア(リュクレス・ボルジア)』で端役を演じた若い女優ジュリエット・ドゥルーエと出会い、ふたりはたちまち恋に落ちます。これがその後50年もの間、ふたりの間で交わされる激しい情熱の始まりでした。
▲レオン・ノエル『マドモアゼル・ジュリエット』(1932年 作者によるリトグラフ)
©PMVP, photo Andreani
         
▲食堂。
©PMVP
1843年は、作家の人生に大きな転機をもたらした年となります。19歳の長女レオポルディーヌとその夫がセーヌ川で溺死してしまうのです。ユゴーは深く絶望し、政治の世界に興味を向けることで、その悲しみを忘れ去ろうとしました。けれども、もともと民主主義の熱心な擁護者であったユゴーは、ナポレオン3世による帝政復活に反対したため、1851年12月2日のおこったクーデーターの後は、パリからの亡命を余儀なくされます。彼はイギリス海峡のチャネル諸島(アングロ・ノルマン諸島)のガーンジー島に居を構え、その地で文学に身を捧げることになったのです。
ジュリエットもまた、「年上の恋人」の後を追い、すぐ傍で暮らす道を選びました。そしてユゴーはというと、この新しい家で再び装飾美術家としての才能を発揮し始めるのです。その彼の知られざる才能は、このメゾン・ミュゼに完璧に復元された、ガーンジーの家の中国風サロンや食堂に垣間見ることができます。
         
ユゴーが再びパリの地を踏むのは、1870年になってからのこと。その6年後には上院議員になります。当時、彼は共和左派の崇拝の的であると同時に、もっとも人気のある作家の一人でした。1885年5月22日、ユゴーは83年におよぶ生涯を閉じますが、人々は凱旋門からパンテオンまでを行進し、彼のために国葬を執り行いました。
彼の芸術家として才能やその多彩な作品の数々から、ヴィクトル・ユゴーはフランス文学史上で、今なお輝き続けています。
     
それではいよいよメゾン・ミュゼへと皆さまをご案内いたしましょうね。ユゴーが一時、暮らしたこのアパルトマンは、1902年に美術館となりましたが、それはパリ市へデッサンや本、作品などを寄贈した彼の親友で、遺言執行人でもあったポール・ムーリスの尽力の賜物です。思い出の品々や調度品類は散逸したものもあり、アパルトマンの間取りも変わってしまいましたが、わたくしはユゴーが暮らした当時の空気が変わらずそこにあるかのような印象を強く受けました。

この美術館では、さまざまな展示品を通して、私たちの目の前に作家の人生をあざやかに再現してくれています。その人生とは大きく分けて3段階。そう、ガーンジーへの亡命前、亡命中、そして亡命後です。
▲オートヴィルの家の庭のヴィクトル・ユゴーとその家族。
© PMVP, photo Rémi Brian
         
まずわたくしたちが最初に足を踏み入れる、玄関の控えの間は幼少期や青年期、婚約期間、結婚期間と、ユゴーをとりまく家族やその生活にあてられています。
ふたつめの部屋に進まれると、そこには赤いサロンが現れます。そう、先ほどお話したユゴーが友人たちを招いた部屋を彷彿とさせる空間です。

窓から望むヴォージュ広場の眺めは当時とまったく変わっていないかのようです。テオドール・ド・バンヴィルがその著書『思い出』(1882年)のなかで、「夏はとくにすばらしかった。アパルトマンの大きな扉はいつも開け放たれており、窓からは花や木々の葉の香りが漂ってくる。そしてロワイヤル広場でもサロンでも、夜の集いが行われていた。」と描写していますが、わたくしたちは、いともたやすく、その光景を想像することができるのですから。
そしてダヴィド・ダンジェが1838年に制作したヴィクトル・ユゴーのとりわけ立派な大理石の胸像もまた、当時と同じ場所に置かれています。また、悲しい最期を遂げたユゴーの愛娘、レオポルディーヌの思い出の品々には、わたくしはひどく感動させられました。ことにガラスケースにおさめられた手紙やショールといった彼女の身の回りのものや、亡命先の一家の後を追ったオーギュスト・ド・シャティヨンによる肖像画『時祷書を読むレオポルディーヌ』(1835年)には、誰もが心を揺さぶられることでしょう。彼女は絵のなかで、赤いローブを身にまとっています。ユゴーの妻アデルが描いた肖像画『読書をするレオポルディーヌ』(1837年)を額装する際に、ユゴーはその思い出のローブの切れ端を使っています。
     
▲中国風サロン。
© PMVP
続く部屋には、ガーンジーでジュリエットが暮らした家にあった中国風サロンと食堂が復元されており、わたくしたちは亡命先での彼らの生活に思いを馳せることができます。このふたつの空間は、いずれもユゴー自身が構想したものです。
彼はこの中国風サロンのために、小像やファイアンス陶器、磁器などを置いて組み合わせた飾り棚風の大きな板張り装飾を制作しました。恋人たち2人のイニシャル(V.H.とJ.D)、そしていくつもの語呂合わせを羽目板のなかに配して念入りに作られた作品を前にしてわたくしは、彼の驚くべき想像力にただただ感嘆するばかりです。
食堂は当時流行していた中世のネオゴシック様式で、ユゴーが好んだスタイルです。作家の想像力のほうが、個々の家具の実用性よりも富んでいたためか、家具などは異なるスタイルのもので構成されていました。しかし不思議とこのふたつの部屋には、それぞれ、調和とほどよい統一が漂っているのです。
         
さて、そろそろ美術館めぐりも終わりに近づいて参りました。終盤のいくつかの部屋は、彼がフランスに帰還した時代と、パリ16区エイロー通りにあった終の棲家の寝室が忠実に再現されています。ユゴーが最期を過ごした場所を目にしたとき、わたくしの胸には、さまざまな想いが沸き起りました。

現在ヴィクトル・ユゴー記念館では、ジュリエット・ドルーエ(1806-1883)の生誕200年を記念し、特別展を開催することで、彼女への敬意を表しています。それは「ジュリエット・ドルーエ あなたに私の魂を捧げる」と題された特別展で、たいへん高い質を誇っています。この展示を通して皆さまは、一人の天才の傍らで目立たずに生きることを受け入れた女性の人柄について、よくお分かりいただけることでしょう。この偉大なる文学者を、彼女は天才とはっきり予感していたのでしょうね。
     

この展覧会は、彫刻家、ジェームス・プラディエ ―彼のためにジュリエットはモデルを務めたことがありました― からヴィクトル・ユゴーに至るまでの彼女の恋愛の遍歴をたどったものです。わたくしはとりわけふたつの展示品に、心を動かされました。ひとつはレオン・ノエルの『マドモアゼル・ジュリエット』(1832)という肖像画。その作品を見つめていると、ユゴーを虜にした彼女の若々しさやはつらつとした様子、また純真さがわたくしにも伝わってくるかのようでした。そしてもうひとつは、彼らが出会ったきっかけとなった舞台、『ルクレチア・ボルジア』(1833年)ゆかりの品。その舞台上でプリンセス・ネグロニ役に扮した彼女が身に着けたローブです!

▲レオン・ノエル『ヴィクトル・ユゴー』(1932年 作者によるリトグラフ)
©PMVP, photo Philippe Joffre
         
▲ヴィクトル・ユゴー『エトルタの断崖絶壁』(1935年8月9日)
©PMVP, photo Philippe Ladet
特別展では、たいへん美しい愛の言葉で綴られた手紙もまた展示されています。50年もの間、ジュリエットとヴィクトル・ユゴーを結びつけた情熱の証がそこには確かにありました。彼女は、愛する人におよそ2万通もの手紙をしたためています。わたくしたちはこうした数々の手紙を通して、たとえ彼女が作家のミューズであろうと、またときには助言をする忠実な読者であろうと、さらには手書き原稿や書簡の書き写し作業をする助手であろうとも、ジュリエットがどれほど献身の人生を歩んだのかということに、気づかされます。唯一世間に対してオープンにしていたことは、ふたりが毎年恒例にしていた旅行だけでした。そして彼女は、そのふたりだけの時間をそれは心待ちにしていたのです。彼らはノルマンディーや、ブルターニュ、ライン河畔などを訪れ、ユゴーは『エトルタの断崖絶壁』(1835年夏)のように、旅で出会った情景をありのままにとらえたクロッキーを数多く描きました。たとえば1830年頃に描かれた『寂れた町』という抽象画を思わせるデッサンのように、旅先で残した作品群は、ずっと後になっても作家の幻想や空想の助けになったのです。
         
ジュリエットは世間的には難しい立場に置かれていましたが、生涯を通じての最愛の人に対する慎み深さや献身を忘れることはなく、そうした姿勢にわたくしは尊敬と賞賛の想いを深めました。
「息を引きとるそのときまで、彼女は自分の神を崇拝することを約束しました――」
1883年にジュール・バスティアン・ルザージュによって描かれた『ジュリエット・ドルーエ』(1883年)という美しい作品は、わたくしたちに晩年のジュリエットの姿を紹介してくれます。人間味にあふれた抜けるような白い頬……。その顔は加齢と病気で衰えてはいるものの、その態度には変わることのない献身の想いがあふれています。
ロマン主義の流行によって、ほとばしるような感情は多くの絵画作品やデッサンなどを通して、表現されるようになりました。そうしたロマン主義的な作品の一例を、皆さまはジュール・デュプレの『船舶』でご覧いただけることでしょう。
▲ジュール・デュプレ『船舶』
Paris, musee du Louvre, departement des peintures, don James N.B.Hill, 1962
© Photo RMN / Gérard Blot
         
最後にもうひとつ、ヴィクトル・ユゴー記念館には、彼の著作をはじめ、彼に捧げられた作品などを保存する国際的な図書館があることもお伝えしておきましょう。その蔵書はじつに1万1千冊にものぼります。どなたでも事前予約をしたうえで参照することが可能です。

そしてもしもう少しお時間が許されるならば、マレ地区をゆっくりと散策なさってくださいね。すばらしい邸宅の数々など、パリのなかで長い歴史を積み重ねてきたこの地だからこその景観を、皆さんにぜひお楽しみいただきたいと思います。

親愛をこめて
     

▲中国風サロンの暖炉。
©PMVP
▲ヴィクトル・ユゴー記念館から望むヴォージュ広場。
©A. de Montalembert
▲ヴォージュ広場のアーケード。
©A. de Montalembert

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住所
 
Hôtel de Rohan-Guéménée
6 place des Vosges - 75004 Paris
Tel
 
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Fax
 
01 42 72 06 64
アクセス
 
メトロ : 8号線シュマン・ヴェール(Chemin vert)駅下車
1号線サン・ポール(Saint Paul)駅下車
1号、5号、8号線バスチーユ(Bastille)駅下車
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無料
特別展 : 一般7ユーロ
割引5.50ユーロ
※図書館は予約のみ
Tel +33 (0)1 42 72 82 89
Plus d' infos
MMFのインフォメーション・センターでは、ヴィクトル・ユーゴ゙記念館の公式カタログやガイドブック(フランス語・英語)をご覧いただけるほか、パンフレット(フランス語)をお持ち帰りいただけます。
 
  マダム・ド・モンタランベールについて

本名、アンヌ・ド・モンタランベール。
美術愛好家であり偉大な収集家の娘として、芸術に日常から触れ親しみ、豊かな感性が育まれる幼少時代を過ごす。ブルノ・デ・モンタランベール伯爵と結婚後、伯爵夫人となってからも、芸術を愛する家庭での伝統を受け継ぎ、ご主人と共に経験する海外滞在での見聞も加わり、常に芸術の世界とアート市場へ関心を寄せています。アンスティトゥート・エテュディ・デ・スペリア・デザール(IESA)卒業。
 
 
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