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モンマルトル美術館マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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サリは友人でイラストレーターのアンリ・リヴィエール(1864-1951)とともに、「テアートル・ドンブル(影の劇場)」を創立し、ここで亜鉛板を使った中国の影絵を上演し、小さな傑作の数々を誕生させました。美術館ではすばらしい亜鉛板6点が展示されています。高い技術が要求されたこの劇場では、12人の機械技師が働いていましたが、ここで上演された影絵には、のちに開発される映画の特徴──つまり、動き、音、色などがすでに備えられていました。大人気を博したこのキャバレーは、財政的にも成功したため、独自の新聞を発行し、多くの芸術家たちが皮肉やユーモア溢れる文章やイラストを寄稿しました。

隣にある小さな展示室には、家具と亜鉛製の大きなバーカウンターが置かれ、キャバレーの雰囲気が再現されています。バーカウンターは、19世紀末ラブルヴォワール街14番地の食料品店で使われていたもので、酒類のボトルを置くための場所もあります。後ろの壁に掛けられたマルセル・ルプラン(1891-1933)の《美しき居酒屋のおかみ》(1924年)は、白い布巾を手にした黒いワンピース姿の女性が描かれた絵画で、とても想像力をかき立てられる作品です。その右手にあるのは、アンドレ・ジル(1840-1885)による「オ・ラパン・アジル」の看板(1789-1880年)。黒帽子に赤いスカーフを身につけた楽しげなウサギが、店名の「オ・ラパン・アジル(=はねウサギ)」さながら、前足の上にワインを置いて鍋から飛び跳ね、ちょっと一杯飲んで行こうと誘っているのです。

4階の2部屋では、祝祭の場モンマルトルを舞台に繰り広げられたボヘミアンの生活が紹介されています。当時の芸能界の著名人たちの数多くの写真が、キャバレーの楽しげな雰囲気を今に伝えています。モンマルトルの魂と見なされているトゥールーズ=ロートレック(1864-1901)は、モンマルトルの夜の世界を描いた偉大な芸術家で、ポスターという新しい表現媒体を通じて大衆に直接的に訴えかけ強い印象を与えました。かの有名なリトグラフ《アリスティッド・ブリュアン》(1893年)は、その好例です。帽子、黒いケープ、赤いスカーフという服装そのものが彼の一部となり、肩幅が広く、挑発的なまなざしをした男のシルエットを永遠不滅なものに仕立て上げているのです。ほかのふたつのリトグラフもあくの強いブリュアンの風格ある佇まいを見事に捉えています。キャバレー「シャ・ノワール」の人気歌手だったブリュアンは、1885年、自分のカフェ・コンセール「ミルリトン」を設立。その後、1903年にはキャバレー「シャ・ノワール」を買い取り、フレデ親父にその経営を一任しました。フレデ親父はギターを引き、このキャバレーをもり立てました。ブリュアンは、テーブルの上に立ち、人生の苦しみ、そして酔っぱらいや娼婦、浮浪者といった弱者たちの貧窮を、誰にも真似のできないあけすけな言葉で歌い、またブルジョワたちを嘲弄しました。ロートレックとブリュアンは、それぞれに異なる考え方を持ちながら、互いに尊敬し合う仲であったといいます。

その隣は、音楽に関するポスターのコーナー。ギュスターヴ・シャルパンティエ(1860-1956)が設立したミミ・パンソン音楽院のポスターや、シャルパンティエがモンマルトルの若い女工との出会いから着想を得たオペラ「ルイーズ」のポスターをはじめ、数々の作品が飾られています。
とりわけすばらしいのはロートレックが手がけた《ディヴァン・ジャポネ》のポスター(1891年)でしょう。ディヴァン・ジャポネは、提灯や絹のパネル、竹の椅子といった日本趣味の内装で知られたキャバレー。ロートレックは、このキャバレーで働いていた女優で踊り子のジャンヌ・アヴリル(1868-1943)の細長いシルエットを、一枚のポスターで永遠のものとしたのです。

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