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モンマルトル美術館マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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親愛なる日本の皆さまへ

本日は皆さまを、19世紀末から20世紀初頭のモンマルトルの暮らしを体感できるミュゼ、モンマルトル美術館へとご案内いたしましょう。
この素敵な美術館の建つモンマルトルは、ルノワール(1841-1919)やデュフィ(1877-1953)、シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)、そしてその息子モーリス・ユトリロ(1883-1955)など、数多の芸術家たちを魅了し、その暮らしの場となった特別な地区です。個性豊かな彼ら芸術家たちの想いを今なお宿すのが、田園風の風情を残したモンマルトル美術館。ブドウ畑とセーヌ河流域を遠望する比類ない立地にあって、17世紀から18世紀に造られたいくつかの建物から成っています。これらの建物は、モンマルトルの丘でも最も古いものに数えられ、そのうちのひとつにはモリエール一座のある役者が暮らしていたといいます。

それでは、1740年に造られた玄関口からミュゼへ入ってみましょう。エントランスから続く美しい緑のアーチをくぐると、そこは母屋を取り囲む3つの庭です。「ルノワールの庭」と名付けられたこれらの庭は、ルノワールが1876年から翌年にかけて、この場所で描いたかの有名な《ムーラン・ド・ラ・ギャレットのダンスホール》(1876年)や《ブランコ》(1876年)といった絵画を基に改修されました。《ブランコ》は、1877年の印象派展に展示されましたが、高い評価が得られず、友人で画家のギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)が購入したという作品です。建物の右側にある壁に囲まれた庭に残されたブランコが、その思い出を今に伝えています。そしてその背後に姿を見せる、モンマルトル大聖堂の丸屋根と高さ84mの鐘楼の壮麗な佇まいとまぶしいほどの白さといったら──。なんと印象的なことでしょうか。

木陰になった小道が美術館からサン・ヴァンサンの庭へと続いています。カエデやシカモア、白マロニエが植えられたサン・ヴァンサンの庭はパリ市の環境保護地域に指定された庭園。道を下って行くと、アニエス・リスパルによるプルボ(1879-1940)の彫刻に出会います。プルボは、モンマルトルの丘に生きる子どもたちの表情を捉えた作品を描き、以降、こうした腕白小僧たちは「プルボ」と呼ばれるようになりました。さらに進むと、テラス、そして有名なモンマルトルのブドウ畑の上にせり出す傾斜した庭に出ます。ここには29品種、1,742株のブドウの木が植えてあり、ここで収穫されるブドウは、毎年10月の第2土曜日に行われる収穫祭で競りにかけられます。

ブドウ畑の向こうにあるピンク色の壁の建物をご覧になってください。これがかの有名なキャバレー「オ・ラパン・アジル」。ルノワールやユトリロ、モディリアーニ、ブラック、ピカソといった当時の有名な芸術家たちがやって来て飲み、そして歌った伝説の場所です。今なお営業を続けるオ・ラパン・アジルは、現存する最古の19世紀のキャバレーとなっています。

ルノワールの庭は散歩にはうってつけで、本当によく造られた庭園です。洋梨やアーモンドといった果樹、小低木、ヒナゲシやチューリップといった花々が植えられたこの庭では、印象派の画家たちにとって大切だったさまざまな色に出会うことができます。ここを訪れたら、皆さまもきっと、この静かで調和した空間にいつまでもいたいと思うことでしょう。

傾斜した庭を上っていくと、再び美術館に行き当たります。2階の展示室では、作家や芸術家が通った有名なキャバレー「シャ・ノワール」が紹介されています。1881年にロドルフ・サリ(1851-1897)が設立したこのキャバレーは、パリの名士たちの出会いの場となり、19世紀末のボヘミアンの象徴ともなりました。サリは、ここにピアノを設置しましたが、これは初めての試みでした。こうして、数多くのシャンソニエ(訳注:自作の風刺歌を歌ったり風刺漫談をしたりする芸人)や詩人たちがここを舞台に作品を生み出すこととなったのです。とりわけよく知られているのは伝説的なアリスティッド・ブリュアン(1851-1925)でしょう。有名な哀歌「シャ・ノワール」を作曲したブリュアンは、当意即妙の言い返しで名指しされたお客を“犠牲”にして、客席に笑いの渦を巻き起こしたといいます。

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