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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

パリの真ん中、ルーヴル宮とコンコルド広場の間──北はリヴォリ通り、南はセーヌ川という素晴らしいロケーションに、わたくしたちがその存在を忘れてしまいがちな、ある庭園があります。フランス史においても重要な場所、チュイルリー公園です。パリで最も美しい庭園のひとつに数えられるこの場所は、都会の喧噪から離れて緑の中の散策を楽しむだけでなく、17世紀から現代まで、それぞれの関心に応じて彫刻作品を鑑賞することもできるスポットです。面積はおよそ23ヘクタール、パリで最も古いフランス式庭園のひとつで、とりわけ、古代と現代の彫刻に重点が置かれ、類稀な野外美術館となっているのです。そして、ルーヴル美術館とチュイルリー庭園を結ぶのは、およそ6ヘクタールのカルーゼル庭園。カルーゼルの凱旋門からチュイルリー宮殿のテラスまで広がるこの空間には、マイヨール(1861-1901)の作品が20点ほど展示されています。

歴史的建造物に指定され、1991年にはセーヌ河岸地区の一部としてユネスコの世界遺産に登録されたチュイルリー公園は、2005年以降、ルーヴル美術館の管理下に入ったことで、より手入れの行き届いた庭園となりました。何世紀にもわたり、栄光と衰退の舞台となってきたこの庭園は、今日もなお、散策、そして祭典のための特別な場所としての地位を守り続けています。

庭園の歴史は古く、16世紀まで遡ります。フランソワI世(1494-1547)は、その母ルイーズ・ド・サヴォワ(1476-1531)のために、ルーヴル要塞の足下に邸宅と土地を購入。その土地には、中世以来、瓦(チュイル)の制作工房があったことから「チュイルリー」と名付けられました。1564年、国王アンリII世(1519-1559)の寡婦カトリーヌ・ド・メディシス(1514-1589)が、建築家フィリベール・デロルム(1510-1570)に依頼して、ルーヴル宮近くにチュイルリー宮をつくらせ、ここに息子フランソワII世(1544-1560)を住まわせました。カトリーヌ・ド・メディシスは、ここに噴水や花壇、有名な陶工ベルナール・パリシー(1510-1589)作の陶器製品で飾られたグロット(洞窟)のある壮麗なイタリア式庭園を造園。娘のマルグリット・ド・ヴァロワ(1553-1615)と未来の国王アンリIV世(1553-1610)の結婚式をはじめとする豪華なパーティーが開かれるようになったのです。アンリIV世は長じて、息子を連れてこの庭園を散歩することを好み、9歳でその父王を亡くすことになる未来のルイ13世(1601-1643)は、ここを格好の遊び場としていました。

1662年6月、王太子の誕生を祝うため、ルイ14世(1638-1715)はここで壮大な催し物、騎馬パレード(カルーゼル)を行います。カルーゼル広場の名は、この祭典を記念して冠されたものです。その2年後、ルイ14世とその宰相コルベール(1619-1683)は、造園家アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)に、チュイルリー公園をデザインし直すよう依頼します。こうして庭園はフランス式庭園へと姿を変えることになりました。このとき、ル・ノートルが決めたこの庭園のアウトラインが現在でも受け継がれているのです。宮殿の中心線に沿って中央の道をつくり、その西側には丸い池、東側には八角形の池が置かれました。こうして、パリの西の中心軸シャンゼリゼまでつづくパースペクティヴが開けました。ル・ノートルはまた、テラスをふたつつくりました。南側の「水際のテラス」からはセーヌ川を見渡せ、北側の「葉叢のテラス」は、未来のリヴォリ通りに沿っています。将来コンコルド広場となる場所を見下ろすようにつくられたふたつのテラスには、庭園の入り口を取り囲むように蹄鉄型にカーブする傾斜路がついています。最初は国王一家と宮廷人だけが入れた庭園でしたが、ルイ14世はこの場所を「紳士たち」の散歩のために開くことにしました。

Update : 2016.8.1

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