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フェルネ=ヴォルテール館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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こうして1759年、ヴォルテールはジュネーヴにほど近いフェルネに7ヘクタールの土地に囲まれた館を購入し、伴侶となった姪のドニ夫人(1712-1790)とともに居を定めます。この時期はヴォルテールのもっとも実り豊かな時期。とりわけ演劇に没頭した時期でもありました。
1763年、ヴォルテールは『寛容論』を出版し、この中で司法の誤り、とりわけ息子殺しの罪で死刑に処されたジャン・カラスの冤罪を告発します。ヴォルテールはカラスの名誉回復のために熱心に闘い、最終的に1765年3月9日、彼の無罪を勝ち取ることに成功しました。1770年から1772年、ヴォルテール哲学の頂点を示す9巻440項目からなる書物『百科全書に関する問い』を著します。

ヴォルテールは優れた書簡を残した作家としても知られ、分かっているだけで2万1,000通もの手紙をしたためていますが、そのうち1万5,000通がフェルネで書かれたものでした。
1778年、84歳のヴォルテールは、彼の著した最後の悲劇『イレーヌ』のコメディー・フランセーズでの上演に立ち会うためにパリに戻ることを決意。ヴォルテールはパリの群衆の大喝采を受けて担ぎ上げられました。同年3月30日には、アカデミー・フランセーズからオマージュを受けています。 『イレーヌ』の上演を見届けたのち、ヴォルテールは病に倒れ、2ヵ月後、友人であるヴィレット侯爵邸で死去しました。演劇人のための共同墓地に埋葬されるのを避けるため、家族と友人はヴォルテールを暫定的にシャンパーニュ地方に密かに埋葬。1791年、ヴィレット侯爵の尽力でヴォルテールの墓地はパリのパンテオンに移され、ここに眠る偉人の中でもっとも古い人物となりました。遺産相続人のドニ夫人は、ヴォルテールの死後、時を置かずして、フェルネの館をヴィレット侯爵に売却しています。

65歳で居を定めたフェルネの町で、ヴォルテールはまるで領主のように振る舞ったといいます。時計製造業と絹織物業といった手工業を優遇し、理想的な町をつくろうとしたのです。そのための工房と、陶器製造の製作所を造り、また100ほどの住居も建設させました。経済的に余裕ができたので、館を全面的に改築し、多くの訪問者を受け入れるためにふたつの棟を増築しています。新古典様式の建物のバラ色のファサードには、正面玄関を取り囲むようにドーリア式円柱が立ち並んでいます。三角形の破風にはヴォルテールとドニ夫人の紋章が刻まれ、建物の左手には、1892年に増築されたバルコニーがあります。

19世紀には玄関ホールが改装され、サロンへと続く扉の両脇に彫像が置かれました。ひとつはヴォルテール、もうひとつは18世紀を代表する著名な哲学者ルソーのもので、両者とも手に本を持っています。お互いに認め合うことはありませんでしたが、ともにフランス革命の先駆者と見なされる偉大な哲学者です。

玄関を入って左手が控えの間。かつてはヴォルテールを訪ねた人々の待合室として使われていたこの空間は、改修を経て、在りし日のままの青色を取り戻しています。ここには、この館の改装の過程を記録した版画が飾られ、フランソワ・マリー・ポンセ(1703-1786)によるヴォルテールの素晴らしい胸像が置かれているので、ゆっくりとご鑑賞なさってくださいね。また、金、銀、七宝をあしらった円形の懐中時計(1770年)は、この町に時計産業を導入する上でヴォルテールが大きな役割を担ったことを物語っています。

お次はアルプス山脈、とりわけモンブランの素晴らしい眺めを一望する大広間へと参りましょう。ヴォルテールの時代は、ここはふたつの部屋に分かれていました。ダイニングルームと仕事部屋兼図書室です。現在は模型と映像音声ガイドが置かれていて、当時のフェルネやここに滞在した著名人に関する展示がなされています。7,000冊もの蔵書を誇ったというヴォルテールの図書館を彷彿とさせるような何冊かの書物が置かれていますが、ヴォルテールの実際の蔵書は、彼の死後、親交のあったロシアの女帝エカテリーナII世(1762-1796)が購入し、今もロシアにあるのだそうです。

Update : 2018.12.17

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