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コロンベ=レ=ドゥ=ゼグリーズ、ラ・ボワスリーシャルル・ド・ゴール記念館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

第二次世界大戦の英雄かつ、類い稀なるフランスの政治家、そして著述家でもあるシャルル・ド・ゴール将軍(1890-1970)。彼に思いを馳せるのに最もふさわしい場所は、彼の暮らした村、コロンベ=レ=ドゥ=ゼグリーズでしょう。ド・ゴール将軍が彼の地への埋葬を遺言としたことで、フランス中にその名を知られることとなった小さな村です。

パリからおよそ200km、パリとフランス国境東端のちょうど真ん中に位置するコロンベは、小さくて魅力的な田舎の村です。「ラ・モンターニュ(山)」と呼ばれる緑の丘があり、山頂には「自由フランス」の象徴である巨大なロレーヌ十字がそびえています。そのふもとに建つのが、シャルル・ド・ゴール記念館。ド・ゴール将軍を通じて、20世紀フランス史に残る出来事を辿るミュゼです。

まずは、ド・ゴール将軍とその家族の暮らしを垣間見ることのできる場所、1934年にド・ゴールが購入した邸宅ラ・ボワスリーへと参りましょう。邸宅は村の入り口に位置する、およそ2ヘクタールの公園の中にあります。見学のガイドをしてくださったジャキノ夫人によれば、ラ・ボワスリーは一般公開されてはいるものの、今なお個人の邸宅であるとのこと。1978年にド・ゴール夫人がここを離れて以来、ラ・ボワスリーの地所はその息子のフィリップ・ド・ゴール提督(現在97歳)と、その子供たちの所有となっているのです。そのため、建物の2階は見学することができません。

建物は1810年代に建設されました。ラ・ボワスリーという名の由来は何でしょうか? もともとはブラッスリーだったのか、あるいは周りを木(ボワ)に囲まれていることから付けられた名前かもしれませんね。
当時中佐だったド・ゴールがこの場所を選んだのは、自分の家族、とりわけトリソミーを持つ当時6歳の娘アンヌの健康を思い、彼女が田舎で静かに暮らせるようにと望んだからでした。また、配属の可能性のあった東部の駐屯地からもそれほど遠くはありませんでした。改装工事後の1934年6月、ラ・ボワスリーで家族とともにヴァカンスを過ごしたシャルル・ド・ゴールは、思索や執筆に最適なこの緑豊かな田舎に魅了されます。しかし1940年、フランスがドイツに侵攻されるとド・ゴール一家はイギリスに亡命します。主を失ったラ・ボワスリーは避難民に開放され、ド・ゴールに死刑宣告が下されると、その財産のひとつとして押収。邸宅は売りに出されてドイツ軍に徴発され、野戦病院として使われました。

1944年、ド・ゴール将軍の息子フィリップが戻ってきたとき、ラ・ボワスリーは廃墟と化していました。ポーチや塔の再建を含む2年間におよぶ工事の後、ド・ゴール将軍は家族とともにラ・ボワスリーに戻ることを決めます。そして1946年1月、首相を辞任し、妻と娘とともにここに居を定め、『大戦回顧録』の執筆を始めたのです。その2年後、娘アンヌが20歳でこの世を去り、コロンベ=レ=ドゥ=ゼグリーズの白い墓に埋葬されます。愛する娘の思い出に、イヴォンヌとシャルルのド・ゴール夫妻は、知的障害のある人を受け入れることを目的としたアンヌ・ド・ゴール財団を設立することになります。ド・ゴール将軍は、著作権料の半分をこの財団に寄付しました。

ラ・ボワスリーはド・ゴール家の静かな暮らしにぴったりでした。将軍は執筆の合間に、自然に囲まれた場所を散歩することを好みました。ラ・ボワスリーに一歩足を踏み入れると、この邸宅が本当に家族の暮らしの場であることに気づかされます。そして、シャルルやイヴォンヌへの贈り物がたくさん飾ってはあるものの(例えば玄関には、1940年8月27日に自由フランスに加わったカメルーンより贈られた象牙があります)、室内の装飾や家具は驚くほどシンプル。階段の下、木の扉の向こうにはとても小さな部屋がありますが、ここには直接エリゼ宮(大統領官邸)につながる電話がありました。それでも、ド・ゴール将軍は電話嫌いで、盗聴を恐れてごく短い通話しかしなかったのだそうです。

Update : 2019.10.1

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