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コロンベ=レ=ドゥ=ゼグリーズ、ラ・ボワスリーシャルル・ド・ゴール記念館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。バックナンバーを読む
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次に、彼がふたつの大戦の間に著した著作から読み取れる、ド・ゴールの政治的、軍事的思想についての展示があります。ド・ゴールは、戦車は防衛の要になるべきだと考えていましたが、この考え方は当時、上官の反感を招きました。ドイツ軍が採用することになるこの理論は、模型で分かりやすく説明されています。

記念館の後半は、第二次世界大戦にあてられています。ド・ゴールは、1939年9月の宣戦布告と同時に少佐に任命され、1940年6月1日に将軍になりました。フランスを打ちのめした惨禍を前に、彼は行動することを決意。6月17日ロンドンに飛びます。彼の家族もすぐに合流しました。そして翌日、有名な「6月18日の呼びかけ」をBBCの電波で流し、ドイツの占領に抵抗し、戦いを続けるようフランス人を鼓舞したのです。この重要な演説は、じつは放送時はほとんど聞かれることはありませんでしたが、レジスタンスの発端として歴史に残ることとなりました。当時のフランスは、ペタン元帥のもと、反ユダヤの政策を推し進めたヴィシー政権下にあったのです。展示の一角では、ラジオの重要さを取り上げ、電波戦争について説明しています。

イギリスの首相ウィストン・チャーチル(1874-1965)や、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882-1945)との複雑な関係についても触れられています。また、記念館の中心では、北アフリカでの紛争が非常に印象的なスライドショーによって説明されています。ビルアケムやリビアの砂漠のエル・アラメインの激しい戦いが映し出されています。そして、続く展示室では、1944年6月の上陸作戦、そしてフランス、とりわけパリ解放に焦点が当てられていて、衝撃的な写真が展示されています。同年8月25日、シャンゼリゼに降り立ったド・ゴールが、民衆に歓喜で迎えられた写真が、非常に印象的でした。
しかし、フランスは廃墟と化し、再建する必要がありました。ド・ゴールは臨時政府の大統領に就任しましたが、権力の概念を巡って憲法制定議会と対立し(強い行政権と権力分立)、辞任します。彼はコロンベに戻り、『回想録』を執筆したのは、この時期のことでした。しかし、アルジェリア事件に立ち向かうことができずに第四共和政が不安定になると、ド・ゴールは1958年6月1日、再び首相の座に呼び戻されます。そして同年9月28日に、レフェレンダムによって新憲法が可決。ド・ゴールは第五共和政の大統領に選出されました。
ここには、ド・ゴールに続くすべての大統領の写真が展示されています。1962年、エヴィアンの合意の後、アルジェリアは独立しました。また、別の展示室では、仏独友好の役割と1959年の欧州経済共同体について紹介されています。
1968年5月の危機は国を麻痺させました。ストライキ、バリケードを伴う学生たちのデモが、当時のポスター、写真、敷石の展示で喚起されています。

ド・ゴールは上院の改革と地方分権化についてのレフェレンダムを国民に提案しますが、棄却されました。事前に宣言していたようにド・ゴールは辞任し、何日かアイルランドで過ごします。霧に包まれた海岸沿いを妻とともに散歩するド・ゴールの姿を捉えた有名な写真がありますが、とても感動的な一枚です。

ド・ゴールはその後コロンベに戻り、執筆を続けました。遺書(ここで読むことができます)に記された彼の望みに従って、国葬は行われませんでした(ビデオがあります)。葬儀に参列したのは家族と、フランス解放の同志たち、そしてコロンベの住人たちだけでした、ド・ゴールは本人の遺志に従って、彼が選んだ村の小さな墓地で娘アンヌの傍に葬られました。墓地も一般公開されています。

友情を込めて。

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Update : 2019.10.1

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