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ジロデ美術館、モンタルジマダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

本日、皆さまをパリの100kmほど南、サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏のガティネにある小さな町モンタルジのミュゼへとご案内いたしましょう。この町に生まれた19世紀の芸術家、アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン(1767-1824)の名を冠し、2002年に「フランスの美術館」の称号を得たジロデ美術館です。

モンタルジは、数多の川や運河が流れることから「ガティネのヴェニス」と呼ばれています。2016年には、ロワン川の増水のために改装中の美術館が浸水し、作品も水浸しになるという出来事がありましたが、皮肉にもジロデは1806年のサロンに《洪水の情景》という作品を出品しています。ロマン主義の画家たちに影響を与えた作品ですが、かの有名な《メデューズ号の筏》(1819年)で知られるテオドール・ジェリコー(1791-1824)もそのひとりに挙げられるでしょう。その後、大規模な改修工事を終えて、美術館は2018年に再び開館しました。建物は完全な建て直しによって生まれ変わり、ファサードにガラス張りの大きなギャラリーを増築することで、この場所ならではのエスプリはそのままに、ミュゼを訪れる人の流れをスムーズにすることに成功しています。さらに100点以上の作品と19世紀に描かれた壮麗な天井画も修復され、在りし日の輝きを取り戻したのです。

ミュゼの歴史は、19世紀中頃、当時の副知事であったジラルド男爵(1815-1883)とモンタルジ市長が、美術館の基礎となる作品群を国から寄託されたことに始まります。そして1853年、市の劇場の一部を利用した美術館がオープンし、その後新しい建物に移設されます。1859年から1864年に新古典主義様式で建築された建物は、ロワン川とブリアール運河の間、12世紀に造られた池や洞窟、装飾アーチなどで彩られた美しいデュルジー公園の中にあります。この建物は、地元の名士であるP.F.ダルジー(1764-1851)の意向で、学校、図書館、そして美術館という複数の目的のために建てられました。モンタルジ生まれの彫刻家アンリ・ド・トリケティ(1803-1874)がファサードの装飾に携わり、芸術、科学、産業のアレゴリーをテーマに制作しました。2階は、天井からの採光があり、ルーヴル美術館のように複数の回廊が方形のサロンで繋がる構成。堂々とした黒大理石の列柱は、教会の祭壇背後の飾り壁だったものです。コレクションの一部ともいえる素晴らしい天井画もお見逃しなく。ジロデへのオマージュとして、サロンの天井装飾には、ジロデによるグリザイユ画4点が含まれています。

このミュゼが、正式にジロデの名を冠することになったのは、1967年の彼の回顧展の後のことでした。ジロデ美術館はルーヴル美術館に次いで彼の作品を多く所蔵しています。2005年、ルーヴル美術館の主催で開催されたジロデ展は、世界の主要な美術館を巡回しましたが、日本でも東京富士美術館、福岡県立美術館、富士美術館(静岡)、ひろしま美術館と各地で開催されたことは、皆さまのご記憶にもあることでしょう。

地方の小さな町モンタルジに暮らすジロデの両親は、息子には貴族に相応しい教育を与えたいと考え、ジロデが7歳になると一家の友人で医師のブノワ・フランソワ・トリオゾン(1736-1816)にその教育を託します。そして、ジロデはパリの地で、「啓蒙時代」の影響を色濃く受けた諸芸術、文学、科学に関する教育を受けることとなったのです。デッサンの才能に恵まれた彼は、1784年、新古典主義様式の巨匠、画家ダヴィッド(1748-1825)のアトリエに入ります。そしてダヴィッドに従い、ジロデも歴史画家になり、《妹のカミーユを殺すホラティウス》(1785年)を制作。1789年にはローマ賞グランプリを受賞し、1790年から1795年にかけて、ローマに滞在します。そして、少しずつダヴィッドの様式から解放され、より自分らしいスタイルを確立させていきました。《エンデュミオンの眠り》(1791年)では、新たな感性を表現して高く評価され、独創的な画家という名声を確立しました。夜の明暗の中に、神秘的な若い男性が描かれています。男性の身体は柔らかな光で照らされ、けだるそうな様子で月の女神を迎える様子が描かれた一枚です。

Update : 2021.9.1

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