藤田嗣治の住居兼アトリエ
藤田の思い出が詰まった、宝石のような美の館。
  日本で生まれ絵を志し、フランスで大輪の花を咲かせた
エコール・ド・パリの巨匠、藤田嗣治。
今年は生誕120周年を記念して、日本では大回顧展が行われる。
藤田は晩年をフランスで過ごし、ヨーロッパで没した。
▲1階に台所と食堂、2階に寝室と居間、最上階はアトリエ
  その終の住処は、現在メゾン・アトリエ・フジタとなって大切に守られている。メゾンの中にあるオブジェは全てオリジナルで、
画家の生前のままに置かれてある。各オブジェに汲めどもつきない藤田のエピソードがあふれて、
藤田を理解するのにこれほど素晴らしい場所はない。小さいながら貴重な珠玉の美の館。
   
   
パリ郊外の小さな家
パリから高速に乗って小1時間。南西に約30キロ離れた郊外の村に藤田の最後の家はあった。ヴィリエ・ル・バークルという名前の村は、現在この地方に技術や科学研究施設が集ってきたせいで村民3,000人を数えるほどになったが、藤田が家を買った当時は350人ほどの寒村だったという。村のメインストリートである街道沿いに建つ家を藤田は1960年の10月4日に買う。その時画家は74歳だった。購入するまで藤田はその家を見たことがなかったという。家選びは全て代理人にまかせたらしい。エッソンヌというパリの南にあるこの地方は、昔からアーティストや作家が好んで居を構えたところだった。例えばヴィクトル・ユーゴー、アルフォンス・ドーデ、ドラクロワ、カイユボット、コクトー、レジェ……。加えて藤田は若い時からこの地方になじみがあった。1930年代、仲がよかった人気歌手ミスタンゲットがこの近くで開いたパーティーに参加したこともあったし、東に少し行ったところには、友人の詩人、ポール・フォーの家があった。
藤田が君代夫人と郊外に移ったのは、高齢に達した藤田が、残りの人生は人に煩わされることなく制作に打ち込みたいと思ったからだと言われている。確かにこの場所は公共交通手段を使って訪れるには不便な場所だ。ここで藤田の足となったのは、レジェが没するまで仕えていた運転手のタクシーだった。この運転手は藤田の死後、君代夫人がこの家を去る1991年まで、親切に移動の面倒を見たという。
▲道側からみると2階建てに見える
藤田の世界がここに凝縮
▲居間の様子。暖炉隠しには子どもの情景が版画されている
18世紀の農家だったこの家は街道の土手の斜面に建っており、正面から見ると2階建てだが、庭側から見ると3階建てである。庭に面した半地下は台所と食堂、玄関からまっすぐに入った1階には居間と寝室、屋根裏の2階は全部アトリエとなっている。そのアトリエの壁に藤田が記した家の記録が残っている。そこには「私たちの家は18世紀のもの。1960年10月4日から私たちのもの。1961年11月24日、最初の夜を過ごした」という言葉と家と夫婦が乾杯する版画が描かれている。藤田は1年以上を費やしてこの家を自分の好みに改造した。玄関や台所などのドアは素朴な木彫りのものだが、これはスペインに旅行した時に持ち帰ったものだった。藤田はこの小さなドアに合わせて壁を設えている。
外壁には17世紀のフランドルのパン型で作ったライオンのレリーフがある。その下の小さな木のドアを入るとそこは台所と食堂に降りて行く階段の広い踊り場となっている。正面にさっき見たレリーフの型が飾ってある。左手に大きな暖炉があり、その暖炉隠しには子供の情景が白地に黒で版画されている。
▲玄関の脇にある藤田手作りの壁掛けには彼のハンチングが
この家には幾つか暖炉があるが、全ての暖炉隠しは違った子供の情景が描かれている。それだけでひとつの連作と言えるほど、ほのぼのとしてかわいい。玄関近くには藤田が自分で削って作った木製のマントかけがあり、そこには今でも彼のハンチングがかかっている。同じ様な味わい木彫の吊り棚があるが、現在そこには何もない。というのは、飾ってあったおひな様が盗まれてしまったからで、このおひな様は君代夫人のために画家がパリの骨董屋で求めたものであった。藤田は蚤の市が好きで、パリにいた頃は毎日曜の朝、夫人と連れ立って出かけていたそうだ。そんな風に集めた品がこの家にもたくさんある。時間と人の手を経たほのぼのとした味わいのものを藤田は好んだようである。
この踊り場には他に、庭で花を摘むのに使った子供が使う古い乳母車、どことなく輪郭が藤田の描く絵に似ている16世紀の聖母の木彫、自分で版を押して作ったついたてがある。
▲藤田は自らミシンを使いカーテンや服などを作った
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60年代の典型的な台所
階段を降りると右が台所、左が食堂。台所の奥にカーブ(物置)があって、そこに湯沸かし器などの暖房施設があるのだが、その壁にマジックでバルブなどの説明や操作の方法が日本語で書かれている。たぶんフランス語がわからない君代夫人のためだろう、赤いバルブにはカタカナで「サワルナ」とある。それを見ると藤田夫妻の実在が真に迫ってくる。
▲60年代からそのままの台所には、昔懐かしいかき氷機も
この台所は60年代の典型で、調理台の上にある古い電化製品を見て、訪れたフランス人も日本人も思わず「これ、おばあちゃんの家にあった!」と歓声を上げるのだとか。
▲祭壇のある食堂は、藤田の作品でおなじみの場所
流しの奥に貼られているタイルは本物のデルフトやスペインの手描きのものもあるが、そのほとんどは白いタイルにデルフト焼きのモチーフのシールを貼ったものであった。藤田が他に作ったものは、額でも棚でも、何でも上手過ぎて、すでにアート・オブジェの域に入っているが、この家ではこのタイルだけが藤田の日曜大工的なしろうと仕事で、なんだかかえって人間味が感じられる。
台所では朝食を食べたのだろうか。庭に植えたもみじが見える窓の側に丸テーブルがあって、風呂敷で作ったテーブルクロスとフランスのギンガムチェックのクロスがかかっていた。
その隣の食堂はテーブルも棚も自然のままの木製のものを使い、白壁も相まって南国的なパティオのような雰囲気。スペインや昔に訪れた南米をイメージしたのだろうか。窓には青と白の細かい縦縞に赤いリボンがあしらわれたカーテンがかかっている。「B&B(ベベ:ブリジット・バルドーのこと)をイメージした」と藤田がふざけて言っていたとか。テーブルクロスもカーテンも藤田が縫った。
▲暖房器具の取り扱い方が日本語で記されている
▲台所の引き出しの中には藤田のメッセージが入ったまま
第1次世界大戦中、戦火を恐れてロンドンに滞在していたとき、貧窮して洋服屋で働いたことがあったらしく縫い物は得意だった。君代夫人によるといつも手を動かして、何かしらを作っている人だったそうだ。美的センスに加えて、人一倍のエネルギーを持っている人だった。このカーテンは、縞がプリントではなく極細の綿糸で色別に織られており、とても質のいいもの。カーテンひとつにもいいものを選ぶ画家の目の高さに、記念館のフランス人スタッフもうなったという。
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思い出の品に溢れた居間と寝室
藤田が81歳で膀胱ガンで亡くなったのは1968年のこと。それから1991年に日本に戻るまでの21年間、君代夫人はひとりでこの家に住んだ。それだけ画家の思い出を大切にしていたのだろう。寝室のベッドも当時のままに残っている。日本に帰るにあたり、君代夫人はこの家をエッソンヌ県に寄付し、修復、研究などの作業がなされた後、2000年に記念館としてオープンした。
▲アンティークの人形がベッドに横たわる藤田の寝室
コンセプトは「訪れる人を藤田の家に招かれた気持ちにさせること」。この家の様子は1964年にルポルタージュのために詳細にわたって撮影されており、保全するのにそれが役立った。その写真によると寝室にはたくさんの小さな絵が飾られていたが、残念ながらそれらはもうない。代わりにアンティーク人形が5体ベッドの上に横たわっていた。左端のものは1830年代のもので、中央の人形は子供服を作ることから始めて、後にクチュールのメゾンへと発展させたマダム・ランバンが作った洋服を着ている。蚤の市では人形や皿を好んで買ったと言われている。これらの人形もそこで求めたのだろうか。寝室で圧倒的な存在感を示しているのが、3枚のついたて。白地の布製でふちを赤のテープで彩っている。中側には版画が、そして外側には藤田が自分で作ったブリキ細工のかわいらしいレリーフがズラリと貼られている。そのモチーフもハートや花からアダムとイヴ、女性の脚まで様々。結婚は5回したが、子供には恵まれなかった藤田。晩年は子供の絵も多くなり、この家でも村の子供が訪ねてくるのを楽しみにしていたという。このついたてに子供達は目を輝かせただろう。優しい優しい人だったのだろうと想像する。また右の棚の上には友人の彫刻家、ジスモンが作った藤田の頭像が飾られている。
居間は60年代のモダンなソファーが入っている。卓の上にはやはり蚤の市で見つけた浮世絵の冊子と古い暦帳がのっている。階段の下は小さなコーナーとなっているが、きっと当時はそこに電話が置かれていたのだろう。壁に「シェスネー5207」とこの家の電話番号が書かれていた。また居間にはレコードプレーヤーがある。藤田はアズナブールが好きだったとも、浪曲が好きだったとも言われているが、プレーヤーの上に乗っていたのは美空ひばりだった。またここには藤田のエッチングが1枚飾られている。
▲寝室にある聖母のオブジェ。南米から持ち帰ったもの
ランスの壁画を準備したアトリエ
▲ネッサンスの巨匠へのオマージュが捧げられた作品が残る
 階段を上ると、屋根裏のスペース全部がアトリエになっている。ここには君代夫人もあまり立ち入らなかったという藤田ワールドで、全てがそのままにされている。あたかも画家がちょっと席を外したところにお邪魔しているようなのだ。アトリエの正面に、1966年、ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に描いたフレスコ画の習作が残っている。フレスコ画は壁に漆喰を塗り、それが乾く前に描かなくてはならず、一度描いてしまえばやり直しがきかない。
ランスで実際に描く前に相当の準備をしたと思われる。アトリエの壁に試し描きをしたその絵には、藤田が崇拝するイタリア・ルネッサンスの巨匠達へのオマージュが込められている。まず聖母の右側、5人男が並んでいるが、これはダ・ヴィンチの絵の登場人物をピックアップしたもの。また聖母の左腰のあたり、顔の右側だけでているのはジオット、聖母の真下、茶色で描かれているのはミケランジェロ、左端にはダ・ヴィンチの肖像が描かれている。
その前にいろいろな漆喰を塗って、絵の具の乗り具合を試したものが置いてあるが、そこに描かれているのはドラクロワの絵の人物像だという。藤田は古今の美術について非常に詳しかった。晩年になっても貪欲に知識を求めた様子は、音楽、古典画、風俗など、いろいろな分野毎にまとめられた切り抜きのファイルでよくわかる。また筆まめであり、自分が描いた絵や作ったオブジェには必ず日付を入れた。日記も残っていると聞くが、まだ公開されたことはない。
藤田の絵はその乳白色の美しい肌の色が有名である。どうやってその色を出すのか技法は謎だったが、修復時の研究によって鉛白が使われていたということがわかった。
▲藤田愛用の道具がそのままの姿で置かれている
鉛白は昔はおしろいの材料として用いられものだ。藤田は絵の具や筆も西洋、東洋の物を問わず、自分で研究しつつ使っていたという。アトリエには日本の炭がたくさん残ってはいるのにこの炭がどこで使われたのかはまだ分かっていないそうだ。乳白色の肌を引き締める輪郭線は黒で描かれたが、これは分析の結果、炭だったとは確定できていない。
▲古典画、風俗、音楽など興味があることは何でも切り抜いた
東洋でもなく、西洋でもなく、少しミステリアスなその画風にぴったりのエピソードではないか。
このアトリエに置かれているもの、ひとつひとつに物語がある。膨大な数である。歌舞伎を演じるためのカツラ、思い出のアトリエを再現した模型群、ルノワール邸の庭から持って来た石、南米旅行に持って行った鞄、自分の服を作るための型紙、レジョン・ドヌールの勲章がつけられた古い人形、ユトリロの形見の400本あまりのパステル、セザンヌ美術館を訪ねた時の切符と押し葉…。これほど濃厚に故人を偲ばせる記念館というのも珍しい。
藤田は自分の身の回りのものを作品の中に描いている。画家にとって、普段の生活は制作にとって大切なモチーフでもあった。絵の中に描かれているオブジェの実物をこの博物館で眺める時、藤田の絵がいっそう近いものになったと感じるだろう。藤田嗣治という日本とフランスで生きた不世出の画家の美学と感覚をより深く知るために、このアトリエほど訪れるにふさわしい場所はない。
 
田中久美子(文)/Andreas Licht(写真) ページトップへ
▲スペインから持ち帰った食器棚のある食堂
メゾン・アトリエ・フジタ
所在地
 
7, Route de Gif, Villiers-Le-Bâcle
Tel/fax
 
01.69.85.34.65
開館情報
 
土曜日:14:00-17:00
日曜日:10:00-12:30、14:00-17:30
土・日曜日は入場無料・予約不要
平日は要予約。
MMFで出会える藤田嗣治
インフォメーション・センターでは、藤田嗣治の芸術と生涯を辿る写真集『Foujita』(発行:藤田嗣治の住居兼アトリエ)を閲覧いただけるほか、「藤田嗣治の住居兼アトリエ」のパンフレット(フランス語・日本語)をご用意しております。
 
藤田嗣治のカルコグラフィー(銅版画)をインフォメーション・センターにて展示しております。
詳しくはこちら
パリを魅了した異邦人生誕120年藤田嗣治展
展覧会の詳細はこちら
会期
 
2006年3月28日(火)〜5月21日(日)
開催場所
 
東京国立近代美術館
▲藤田嗣治『タピスリーの裸婦』1923年
京都国立近代美術館
©Kimiyo Foujita & SPDA,Tokyo,2005

       

*情報はMMMwebサイト更新時のものです。予告なく変更となる場合がございます。詳細は観光局ホームページ等でご確認いただくか、MMMにご来館の上おたずねください。

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