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ジョルジュ・サンドの家
▲ウジェーヌ・ドラクロワ《ショパンの肖像》1838年
©Maison de George Sand
ジョルジュ・サンドの人生には、つぎつぎと男性が立ち現れました。作家のアルフレッド・ド・ミュッセ(1810-1857)とも2年間にわたる激しい恋愛関係にあったといいます。その後、1837年、親友のリストを通じて出会ったのが、偉大なる音楽家ショパン。以降、1847年に破局を迎えるまでの8年間、サンドがショパンとの燃えるような恋に生きたことは、皆さまもご存知のことでしょう。ショパンはサンドの家で何ヵ月かを過ごし、まさに傑作と呼ぶにふさわしいプレリュードを45曲、作曲しています。
ジョルジュ・サンドがノアンに身を落ち着けたのは、1839年以降のことでした。ノアンのサンド邸には、ドラクロワやフロベール、バルザックといった著名人が訪れました。また、サンドは執筆活動も旺盛にこなしました。『魔の沼』(1846)などの田園小説をお読みになれば、彼女がいかにベリーの地とそこを耕す農民たちを敬愛していたかがおわかりいただけると思います。農民たちへの思いやりと心遣いを忘れなかったジョルジュ・サンドは、彼らから「ノアンの優れた貴婦人」と呼ばれました。そして、1876年ノアンの<青い寝室>で息を引き取りました。
あの時代、世間に認められたただひとりの女流小説家、ジョルジュ・サンド。その類まれなる個性は、26巻にも呼ぶ書簡集を含む著作のなかに今も生きています。
ここに生きた人々の思い出の品が無数に残されたジョルジュ・サンドの館。この場所で、わたくしは彼らの魂の存在を感じずにはいられませんでした。ジョルジュ・サンドが暮らした痕跡も、そこかしこで見られます。そして、家の奥へと進むにつれ、ますますわたくしたちはこの家の雰囲気に飲み込まれ、あたかも、館の主たちの魂がわたくしたちに付き添っているかのように感じられました。そのせいでしょうか、わたくしは、彼ら在りし日の姿を思い浮かべずにはいられませんでした。ピアノを弾くショパン、イーゼルの前に座るドラクロワ、仕事机に向かうジョルジュ・サンド……
ジョルジュ・サンドの家。
©Maison de George Sand
▲サンドの家のキッチン。
©Maison de George Sand
地上階には8つの部屋がありますが、ガイドツアーはキッチンから始まります。キッチンを見てみると、ジョルジュ・サンドは当時の最新設備に関心を寄せていたことが分かります。たとえば、扉の下には各部屋につなげられた鈴の装置があり、客人はこれを使って使用人を呼ぶことができました。さらに、蒸気を煙突まで排出させるシステムを備えたオーブンまでありました。
キッチンのお隣にある食堂は、あとはお客さまを迎えるばかりに支度がされています。食器類は、少女時代のジョルジュ・サンドや、ノアンの最後の持ち主オーロール・サンド愛用のものばかり。色付きグラスはショパンからの贈りもので、苺の飾りがついたお皿とうまく調和しています。彼らは夕食に5〜6時間をかけた後、サロンでゲームや縫い物、刺繍、読書または音楽鑑賞などをして夜を楽しみました。このサロンは、彼らが暮らしたままの姿をもっとも留めた部屋で、壁紙も当時のもの。そこには家族の肖像画が何枚か架けられていて、1838年にオーギュスト・シャルパンティエがノアンで描いたジョルジュ・サンドの有名な肖像画もあります。部屋の真ん中には、かつてサンドとその仲間たちが集まった白樺のテーブルがあります。
▲サンドの家の食堂。
©Maison de George Sand
▲かつて人々が集ったサロン。
©Maison de George Sand
ルイ16世時代の寄木細工の美しい家具調度は、ジョルジュ・サンドが祖母から受け継いだものです。そのまま地上階を進んで祖母の寝室を抜けると、小さくて可愛らしいサロンに通じます。祖母の寝室は、モーリスとソランジュが赤ちゃんだった頃には彼らの部屋として使われていました。サンドは子供たちのそばにいられるよう、隣の小さなサロンを寝室とするようになりましたが、とても狭かったため、ベッドの代わりにハンモックを吊るしたそうです。そしてここで、彼女が最初の小説を著すことになりました。部屋に置かれた父親のヴァイオリンと母親のハープが、ジョルジュ・サンドの人生において、音楽がいかほどに大切なものであったかを物語っているかのよう。もちろん音楽だけでなく、音楽家の存在もですね!
サロンの隣の化粧室は、わたくしたちが、彼女のさらなる私生活へと立ち入ることのできる空間です。
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