Francais 日本語 ザッキン美術館
informations 3 2 1 Paris, le 2 septembre 2008
▲ザッキン美術館のファサード。
©A.de Montalembert
親愛なる日本のみなさまへ

1930年代のパリ、モンパルナスは数多のアーティストたちが暮らす芸術地区でした。その中心部にあるのが今回ご紹介するザッキン美術館。パリが世界の芸術の中心地であった時代の芸術家のアトリエの様子を今に伝える数少ない遺構のひとつです。



▲アサス通りにひっそりと佇む美術館。
©A.de Montalembert
その美の館は、袋小路の奥に隠れるように佇んでいます。ひっそりとした小さな路地を抜けると、そこはこじんまりと美しい緑豊かな庭園のある邸宅です。庭のあちこちには、ザッキン(1890-1967)の壮大な作品が置かれています。じつは、わたくしは若い頃、クラスメートの部屋の窓から、偶然にもザッキンが彫刻しているところを見たことがあるのです。彼はいつも薄紫色のスカーフをまとっていました。小柄な体つきの彼が創り出す彫刻の巨大なことといったら──わたくしは魅了され、その様に見入ったものでした。



▲彫刻が置かれた庭園。
©A.de Montalembert

今日では、この界隈にも大きな建物が多くなりましたが、ここはザッキン在りし日のままの姿で、穏やかな雰囲気を残しています。芸術家が愛した木陰に座り、静寂のなか、彼の作品の美しさに満たされるのはいいものです。

ラテン語とギリシャ語を教える教師の息子として、ロシアに生まれたザッキンは、英国で造形学を学んだ後、1909年にパリへ移住し、エコール・デ・ボザールで彫刻を学びます。
▲緑と溶け込む彫刻群。
©A.de Montalembert
1910年、彼は、エコール・ド・パリを形成する外国人芸術家たちが多く住む「ラ・ルーシュ」(蜂の巣)と呼ばれる集合住宅(共同アトリエ)でしばらく過ごします。エコール・ド・パリとは前衛芸術運動のことで、ザッキンはこの運動の主要人物のひとりでした。彼はここで藤田嗣治(1886-1968)や、アメデオ・モディリアーニ(1884-1929)と出会い、親交を結びます。後にザッキンと女流画家・ヴィランティーヌ・プラックス(1877-1981)が結婚する際、その証人となったのは藤田でした。


▲ザッキンのアトリエ。
©A.de Montalembert

1915年、ザッキンは自ら志願して第一次世界大戦に身を投じます。そして、毒ガスを浴びせられて除隊すると、1920年以降、彼は自分の作品だけを展示し、名声を手に入れます。1923年から1925年にかけて、ザッキンはイタリアと日本への旅に出ますが、日本では東京の竹の台ギャラリーに出品したほか、二科展にも何度か参加しました。

1928年、彼と妻は終の棲家を手に入れます。それが、現在わたくしたちが見学できるこの家です。1941年から45年の第二次世界大戦のあいだは、家を残しアメリカへ逃げますが、帰国するとまたここに暮らし、亡くなるまでここで活動しました。1981年に彼の妻が亡くなると、遺産はすべてパリ市に遺贈され、パリ市が彼らの家を美術館に改築しました。


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