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コンシエルジュリーとサント=シャペル バックナンバーを読む
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▲コンシエルジュリー「憲兵の間」
©Centre des Monuments Nationaux, Philippe Berthé.

現在では、コンシエルジュリーの入り口は、パレ通り側にあります。19世紀に道路を嵩上げしたため、下の階に行くには、とても急な階段を下りねばなりません。見学は、まずゴシック期の広間から始まり、革命期の広間へと進みます。「憲兵の間」(1302年)は、ゴシック期の広間としてはヨーロッパでも最大級のもののひとつですが、その広さといったら!縦63m、横27m、丸天井までの高さ8.5mもの空間です。構造は当時のまま、9つのベイ(梁間)からなる身廊が4つ、60ほどの円柱があります。かつては、王の召使いの食堂として使われており、2,000人近い人が集まることができました。

「憲兵の間」の端にある「パリ通路」(パリとは首都の名ではなく、よく知られた死刑執行人の名前)を通り、「衛兵の間」へと進みます。「憲兵の間」よりも狭い空間ですが、柱頭におもしろい彫刻が施されています。かつてここは、王に面会する人々のための控えの間でした。2階には、王が裁きを行っていた部屋「グラン・シャンブル」がありましたが、現存しません。


▲《刑場へと向かうアガス兄弟、1790年2月8日》18世紀、ヴェルサイユ宮殿所蔵
©RMN (Château de Versailles) / Photographe inconnu
ふたたび「パリ通路」を抜けて、「革命の間」へと向かいます。監房が並ぶ「囚人の廊下」には、いくつもの執務室が再現されています。
  • ひとつ目は、書記の執務室です。書記は、新たに勾留された人の名を牢獄の台帳に記します。
  • ふたつ目は、「コンシエルジュ」の執務室です。コンシエルジュは、監房の鍵を管理しており、空いている監房を新しく来た囚人にあてがいます。
  • 3つ目は、化粧室で、死刑囚をギロチンにかける前に、ここで身支度をさせます。哀れな死刑囚は、私物をすべて取られ、腰掛けに座った状態で、後ろ手に縛られ、シャツの襟を切り取られます。そして、髪を首の上のところまで短く刈られるのです。

2階には、小さな監房が並んでおり、資力とランクに応じた囚人の扱いの違いが分かります。まずは「パイユー」と呼ばれた最も哀れな囚人たち。彼らはシラミだらけの雑居房で藁(パイユ)の上で、大勢で一緒に寝ます。次に「ピストリエ」と呼ばれる囚人たちは、「ピストール(旧体制下の貨幣)」を何枚か支払うことで、ひとり1台ベッドがもらえる4〜5人用の雑居房に入れます。そして、VIP待遇の囚人たちは、家具付きの監房をひとりで使い、食事を給仕してもらうことができました。


▲コンシエルジュリー「ジロンド党員の礼拝堂」の格子のある特別席
©Centre des Monuments Nationaux, Patrick Cadet.

見学は「ジロンド党員の礼拝堂」へと続きます。ルイ16世(1754-1793)に寛大すぎると見なされてギロチンにかけられた議員たちが、ここで最後の晩を過ごしたことからつけられた名前です。この礼拝堂は、1793年から1794年、牢獄としても使われました。格子のある特別席は女性専用でした。
マリー=アントワネットの独房があった場所には、1815年、ルイ18世の命により王室を偲ぶ贖罪の礼拝堂が造られました。黒大理石で施された装飾には、銀の涙がこぼれ落ちています。礼拝堂の奥には、マリー=アントワネットが記した、あの感動的な遺言書の一部が大理石に彫られています。


▲《コンシエルジュリーのマリー=アントワネット》ヴェルサイユ宮殿所蔵
©RMN (Château de Versailles) / Photographe inconnu

▲「女性の中庭」
©A. de Montalembert

お次は「女性の中庭」へ。革命期の姿をそのままにとどめたこの中庭には、女性たちが洗濯をした泉と、食事のための小さな石のテーブルがあります。

監房が並ぶ「囚人の廊下」をもう一度通り、マリー=アントワネットの独房へと参りましょう。ここは、資料に基づいて当時の様子が正確に再現されています。ベッド、イス、小さなテーブルといった質素な家具、十字架像や陶器の水差しをはじめとするいくつかの小物が置かれています。ろうそくの光の下で読書をする黒い装いの王妃と、彼女を監視するふたりの憲兵とは、たった1枚のつい立てで隔てられているだけです。当時のフランスでは外国人と見なされ、「オーストリア女」と呼ばれていたマリー=アントワネットは、裁判の間、憎悪に満ちた屈辱的な糾弾を受けねばなりませんでした。1793年10月16日、コンコルド広場でギロチンにかけられるまで、76日間コンシエルジュリーに幽閉されていました。

19世紀を通じて、コンシエルジュリーは、牢獄として使われました。そしてフランス史の証人として、1862年に歴史的建造物に指定され、1914年に一般公開されたのです。

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