ルーヴル美術館「アングル1780-1867」展
ルーヴル美術館でアングルの大回顧展が始まった。
回顧展としては1967−68年にプティ・パレ美術館で開催されて以来、およそ40年ぶり。
これほど多くの作品が一堂に公開されるのは珍しい。よく知られる名作の数々から、
普段ほとんど目にする機会のない作品まで、アングルを多角的に概観する回顧展となっている。
ロマン派か新古典主義か──。最後のアカデミー画家アングルの芸術
 
 新古典主義の画家―――。ドミニク・アングルの解説には必ずこう記されている。アングルはロマン主義絵画を毛嫌いし、この陣営を代表するドラクロワと対立した。自由な筆触で色彩豊かに描くドラクロワに対し、緻密なデッサンで彫刻のように冷ややかな形態を創り出すアングル。「ダイナミックで情熱的なドラクロワと比べて、アカデミックで冷たい」。こうした見方が通念となった時代が長く続いた。最後の偉大なアカデミー画家アングルの作品には、どうしても時代錯誤的なにおいがつきまとう。古代を参照し、象牙の塔で理想美を追い求めた保守的な画家……。
 このような図式に一石を投じたのが1967年の回顧展だ。アングルは、彼なりのやり方でロマン派的でもあったし、またモダンでもあったというのが現在では定説になっている。「ロマン派的新古典主義」―――。一見矛盾する言葉で形容されるアングルだが、そのモダニスムとは、ロマン派的傾向とは一体何なのだろう。
 
ページトップへ
 
デフォルメされた人体表現と写実性にみるアングルのモダニスムとロマンティシズム
 
▲『アンジェリカを救い出すルッジェーロ』
©RMN/D.Arnaudet-J.Scho
 例えば裸婦を描くとき。解剖学を踏まえつつ、古代ギリシア・ローマの彫刻に倣って人物を「理想化」するのがアカデミーの規範だ。ところが、アングルは自らの理想を追い求めるあまり、時に解剖学を無視して人物をデフォルメする。アングルの代表作のひとつ『グランド・オダリスク』は優美で繊細で一見非の打ち所がない。しかし、よくよく眺めると、やたらと長い右腕には骨格がないように見えるし、脚の組み方は判然としない。
ウエストから下が異様に長く、乳房は脇の下についているかのようだ。注意して見れば見るほど奇妙なのである。『アンジェリカを救い出すルッジェーロ』でも、ぐにゃぐにゃしたアンジェリカの腕と、畸形とさえ言っていいような奇妙な首の造形に引きつけられる。アングルはこうした形態をデッサンにデッサンを重ねつくり上げていった。奇怪で優美な理想美の執拗なまでの探求。
 現実を理想のためにデフォルメする一方で、肖像画においては驚くべき写実性を発揮する。単に衣装の質感までもリアルに描き出す技量があるというだけではなく、モデルの人間性まで浮き彫りにするような鋭い表現力をも備えている。『ルイ=フランソワ・ベルタン氏』は、革命期に『討論(ジュルナル・デ・デバ)』という新聞を立ち上げた人物だ。自信に満ちあふれ、頑固で、こうと思ったら必ずやり遂げる。状況を冷静に判断し、正確な決断を下す。そんな人物像が浮かび上がってこないだろうか。
 理想的な形態を追い求めた末の人体のデフォルメと、人間の内面までも描き出す鋭い観察力と表現力に裏付けられた写実性。ここに「新古典主義」という言葉では括れないアングルのモダニスムとロマンティスムがある、とひとまずはまとめることができるだろう。
▲『ルイ=フランソワ・ベルタン氏』
©RMN/C.Jean
 
ページトップへ
 
宗教画や水彩、そしてデッサンより広い視点で画家アングルを捉える
 
▲『子を宿すマドレーヌ・アングル』
©Montauban, Musée Ingres, Roumagnac photographe
▲『スタマティ一家』
©RMN/Thierry Le Mage
 本展覧会では、こうしたアングルの複雑な魅力あふれる「歴史画」「裸婦」「肖像画」に加え、あまり知られていないジャンルにも光を当てている。そして、文化的社会的、歴史的経済的コンテクストを踏まえて、より広い視点でアングルを捉え直そうと試みているのだ。
 例えば聖母マリアを描いた作品の数々。ロシア皇太子の注文で描いたマリア像を見て、フランスの美術行政当局が同じものを注文したという逸話がある。19世紀初頭に起こった宗教画に対する新たな関心と当時の美術政策、あるいはアングルの商業的成功などを考える上で興味深い。
 例えば水彩画。水彩画は19世紀以降、高い位置を占めるようになる。絵画にとって重要なのは色彩よりデッサンだと考えていたアングルもそれと全く無縁ではない。水彩を用いた下絵で色の組み合わせをさまざまに研究していた。そして、非常に緻密なデッサンの数々が、アングルの技量を余すところなく伝えているのは言うまでもない。
     
中世趣味の作品群を通じて発見する近代画家アングルの不思議な魅力
 
▲『ホメロス礼讃』
©RMN/R-G.Ojéda
 今回の展覧会でとりわけ注目したいのは「トルバドゥール(troubadour)」絵画だ。「トルバドゥール」というあまり耳慣れぬ言葉は、中世の詩人・歌手を意味し、ここでは中世趣味の芸術様式を指している。新古典主義の「古典」とは、古代ギリシア・ローマのことで、様式の上でも主題の上でもこれを規範とすることが求められていた。アングルも当然『ホメロス礼讃』に代表されるような、古代に取材した堂々たる「歴史画」を残している。
しかし、その一方で、中世やフランス史に着想を得たトルバドゥール絵画を描いたことはほとんど知られていない。同時代の流行、それもロマン派の芸術家たちが好んだと言われてきた中世趣味と、アングルもまた無縁ではなかったのである。
 中世趣味といっても、ジャンルとしての「トルバドゥール」の範囲は広く、フランス史、特にフランス国王、そしてラファエロやダ・ヴィンチなどルネサンスの巨匠も題材となる。ごく大まかに言ってしまえば、古代以外の主題に目を向けるということのようだ。『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』は中でも興味深い。ダ・ヴィンチは晩年フランスワ1世の庇護を受けアンボワーズにて生涯を終えるのだが、この作品はフランソワ1世がレオナルドを看取る場面を描いている。
▲『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』
©Photothèque des musées de la Ville de Paris PMVP/ Cliché : Pierrain
芸術家とその庇護者の関係が心温まる感動的シーンに仕立てられ、とかく仰々しく見えがちな「歴史画」と対照をなしている。『パオロとフランチェスカ』は、ダンテの神曲「地獄篇」に登場する恋人たちだ。政略結婚したフランチェスカは、夫の弟パオロと心を通わせ、嫉妬にくるった夫に殺され地獄をさまようことになる。この作品には、フランチェスカとパオロがともに騎士ランスロットの恋物語を読み、初めての口づけをかわす場面が描かれている。背景には剣を持った夫が描かれ、物語の展開を暗示しているが、幸せな恋人たちの姿はどこまでも初々しく微笑ましい。
▲『パオロとフランチェスカ』
©Cliché Musées d'Angers, Pierre David
 トルバドゥール絵画の特徴は、主題だけでなく、人物を演劇的空間に配置し、色彩豊かに描き出す独特の様式にもある。通常「冷ややか」と言われるアングルも、このジャンルでは暖色を多用しあたたか味のある画面を創り出している。また、巨大な「歴史画」と異なり、作品のサイズが小さいこともトルバドゥール絵画の特色だ。「歴史画」や「裸婦」とはまるで異なるアングルの新たな一面を発見できるだろう。
 見れば見るほどに違った表情を見せるアングル。展覧会を訪れれば、アカデミスムが生んだ近代画家アングルの不思議な魅力にとりつかれることは間違いない。
 
ページトップへ
 
  文・阿部明日香 著者プロフィール:
東京大学およびパリ第一(パンテオン・ソルボンヌ)大学博士課程。
専門はフランス近代美術、特にその「受容」について研究中。
 
 
ルーヴル美術館「アングル1780-1867」展
会期
  2006年2月24日(金)〜
2006年5月15日(月)
URL
  <美術館>
http://www.louvre.fr/
<展覧会>
こちら
所在地
  Musée du Louvre, Paris
休館日
  火曜日、祝日
開館時間
  <月・木・土・日曜日>
9 :00‐18 :00
<水・金曜日>
9 :00‐21 :45
入館料
  <常設展>
一般:8.5ユーロ
(18:00‐21:45の入館は6ユーロ)
18-25歳:金曜日無料
第一日曜日、18歳未満は無料
<特別展>
8.5ユーロ
1日券(常設+特別展):13ユーロ
(18:00‐21:45の入館は6ユーロ)
 
MMFで出会えるアングル
「アングル1780-1867」展の公式カタログ、ルーヴル美術館所蔵のアングルのデッサンを集めた画集、その他19世紀フランス絵画に関するカタログや書籍、資料をMMFインフォメーション・センターにて閲覧いただけます。
『Ingres1780-1867』
『LOUVRE CABINET DES DESSINS INGRES』
ルーヴル美術館発行の公式フロアマップ「見取り図と館内のご案内」(日本語)
アングルと同時代の画家ドラクロワ最後の邱宅がミュゼとなったドラクロワ美術館は今月の美術館・博物館Back Numberにて。

*情報はMMMwebサイト更新時のものです。予告なく変更となる場合がございます。詳細は観光局ホームページ等でご確認いただくか、MMMにご来館の上おたずねください。