ゴッホが1888年にアルルに移住し、その招待に応じて10月にゴーギャンが到着します。名作《ひまわり》、輝く太陽の象徴のような大輪の花は、共同アトリエに飾る当初の予定を変更してゴーギャンの寝室に飾られました。画材やモデルを共有したり、同じ場所で風景を描くといった共同制作がスタートしました。最初は良好だった2人のアーティストの関係は、数週間後には悪化していきます。
ちなみにゴッホ美術館が所蔵する《ひまわり》は1889年に再度同じモチーフで描かれたものです。ゴッホは同じテーマの絵を何枚も描いています。それには実際的な理由もあったようで、友人の画家へのプレゼント用、モデルへのプレゼント用、自分の保管用、販売用と、複数枚必要だったからです。
ゴーギャンは写実的な表現から離れて、心象風景をクロワゾニスム(暗い輪郭線で濃淡のない平らな色面を囲う、絵画の表現手法のひとつ)という手法を用いて描くことに挑戦していました。《ひまわりを描くゴッホ》は実は、《ひまわり》制作中の姿を見ていないゴーギャンが描いた作品です。ゴッホは自分の顔の表情が疲れ、精神的に病んでいるという印象を抱きます。それがゴーギャンの感じた画家ゴッホの姿だったのでしょう。
《種まく人》は、ゴーギャンの影響を受けて、想像のなかの風景を描く作品に挑戦した例です。自然の色ではなく、自分の情感を象徴的に伝えるための色選びがなされています。
1888年12月23日、ゴーギャンと喧嘩の後、ゴッホは精神錯乱のため自分の耳の一部を切り取ってしまいます。ゴッホは病院に入院し、ショックを受けたゴーギャンはすぐにパリに戻ります。夢の共同アトリエが悪夢のような結末を迎え、その後もしばしば癲癇性の発作に悩まされたゴッホは1889年の5月にサン・レミにある、サン=ポール精神病院に自ら入院します。
病院の庭や、過去の巨匠たちの模作を描きながら、ゴッホはさらなる画風の変化を迎えます。うねるような筆致、絵の具の厚塗りなど、より大胆な表現に移行していきます。テオの息子(フィンセント・ヴィレム)の誕生を祝って描いた《花咲くアーモンドの木の枝》(1890年2月)、そして《アイリス》(1890年4月)は、《ひまわり》に並んでゴッホ美術館で人気の作品です。ゴッホが精神病に苦しみながら生み出した努力の結晶でもあります。
1890年5月にパリに戻ったゴッホは、しかし、その喧噪のなかに3日間しかいることができませんでした。すぐにパリの北西30kmにある田園の村オーヴェール・シュル・オワーズに、ガシェ医師を頼って行きます。
この地で過ごした最後の2カ月余りの間に、ゴッホは大胆な筆遣いで風景を描きます。静かで落ち着いた環境のなか、さらに新しい境地を開拓しようとする意欲が伝わってきます。
1890年7月27日、ゴッホは自分の胸を銃で打ち抜き、その2日後に亡くなります。自殺の知らせを聞いてかけつけたテオが見守るなか、ゴッホは37歳という若さで、この世を去ります。1880年に画家になることを決意してから1886年の2月にパリに移り住むまで、ゴッホは暗い絵ばかりを描き続けました。逆にいえば、明るく美しい色彩に満ちた傑作は、悲劇的な死を迎えるまでのたった4年間ほどで生み出されたことになります。生涯に売れた絵はたった1枚。精神を病み、不器用な人生を歩んできた男は、今も終焉の地オーヴェール村の教会に、弟テオと並んで眠っています。
ゴッホ美術館は最新機能付きのマルチメディア・ガイドを用意しています。音声はもちろん学芸員が解説をするビデオなどを、液晶タッチスクリーンで見ることができます。ただし、展示内容によって日本語がない場合もあります。Van Gogh aan het Werk(ファン・ゴッホの仕事)では英蘭仏独西伊の6カ国語(5ユーロ)と、子供向け英蘭の2カ国語(2ユーロ)が利用可能でした。
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文・写真 : 安田晴彦(Haruhiko Yasuda) アムステルダム在住
Update : 2014.3.1
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