フェルディナント・ホドラー(1853-1918)という画家をご存知ですか?
母国スイスでは「国民画家」として愛されている画家で、近年ではパリやニューヨークで相次いで回顧展が開催されるなど再評価の気運が国際的に高まっています。しかしながら、日本では今回の展覧会がじつに40年ぶりの回顧展。日本人にとって馴染みの薄い画家といえるかもしれません。そこで、まずはホドラーの人生を簡単に紹介します。
ホドラーは1853年、スイスの首都ベルンに6人兄弟の長男として生まれました。父は家具職人、母は料理人や小作人などとして働く、貧しい家庭でした。
「家族にとって、死はいつでもそこにあった。まるでそうあらねばならないかのように、家には常に死人がいるようだった」
のちに画家自身が述懐しているように、ホドラーの幼少期は常に「死」と隣り合わせの日々でした。7歳で父を、14歳で母を肺結核で失ってしまうのです。絵を始めたのは、母の再婚相手が装飾画家であったからだったようです。
青年期に入ってなお、「死」はホドラーを追い続けます。1885年までに、ホドラーは残された兄弟のすべてを肺病で亡くしてしまうのです。
折しも時代は世紀末。ヨーロッパ芸術の嗜好とも相まって、ホドラーの描く作品には「死」や「暗鬱」のイメージがまとわりついていました。さらに、詩人ルイ・デュショーサルを通じて象徴主義の思想と出会ったホドラーは、労働者や老人をモティーフに、人間の内面や深層心理を描こうと模索していきます。
しかし、ホドラーは40代半ばを過ぎた1900年頃、暗鬱とした世界から解放され、「生」の絵画に目覚めます。
ホドラーは、踊る人々などをモティーフに、「身体」を通じて「感情」を描くこと、さらには、それらの連鎖によって生まれるリズムが織り成す絵画を追求。「パラレリズム(平行主義)」と呼ばれる独自の美術理論へと向かいました。そして、この理論にもとづく絵画で、スイスを代表する画家として評価されるようになりました。
両親兄弟を立て続けに亡くした幼少期・青年期を過ぎ、「生」を描く喜びを見出した画家でしたが、人生の黄昏を迎えた頃、今度は、恋人の死に直面しました。妻子あるホドラーと恋に落ちた20歳年下のヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルは、出会いから5年後、ホドラーの娘を出産後間もなく、病に倒れ、死んでしまうのです。ホドラーは、恋人が危篤から死に至るまでの過程を120枚を超えるスケッチと18点もの油彩に描きました。
そして恋人の死から2年後、ホドラーもこの世を去ります。享年65でした。
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