世界にその名を知られたもうひとつのキャバレー「ムーラン・ルージュ」は、1889年にモンマルトルの丘のふもとに誕生しました。このキャバレーは現在も営業を続けており、クリシー通りの夜を照らしています。ロートレックはこのキャバレーに足繁く通った店の顔のひとりです。この店の売りは第二帝政期に生まれたダンス、フレンチ・カンカン。ジャンヌ・アヴリルやラ・グーリュ(1866-1929)が登場するポスターの効果もあってか、このダンスは大流行したのです。ルイ・イカール(1888-1950)のリトグラフ「フレンチ・カンカン」は、このダンスの軽快で、蠱惑(こわく)的な側面をよく表しています。踊り子たちは何枚も重ねたペチコートの下に赤いリボンを巻いた黒いストッキングを履き、ペチコートを持ち上げて太ももをあらわにするのです。
最後の展示室には、ジョルジュ・フォルメ(1895-1977)作のモンマルトルの丘の模型(1956-1957年)があります。この模型には芸術家たちの住居や仕事場が示されていて、彼らのつながりがよく分かります。「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」は有名画家が共同生活した場所のひとつで、マティス(1869-1954)、フアン・グリス(1887-1927)、ピカソ(1881-1793)がここに住んでいました。ピカソがキュビスム運動のマニフェストとなる《アヴィニョンの娘たち》(1907年)を描いたのは、ここバトー・ラヴォワールだったのです。
現在、モンマルトル美術館となっているコルトー通りのアトリエもまた、数多くの有名な芸術家たちが足跡を残した場所です。ルノワールは戸外でモチーフを見ながら制作したあと、夕方ここに戻ってきました。そしてこの場所にとりわけ長い足跡を残したのは、シュザンヌ・ヴァラドンとその息子ユトリロです。
シュザンヌは1912年から1926年の長きにわたってここに暮らしました。墨で描いた美しい自画像(1894年)には、生涯をかけて自らの芸術を追求したひとりの女性の姿がとどめられています。
洗濯女の娘として生まれたシュザンヌは、15歳でモデルの道へ入り、ルノワール、トゥールーズ・ロートレック、ベルト・モリゾ(1841-1895)のモデルを務めました。その後、ドガをはじめとする友人たちに支えられて絵画を描きはじめ、自ら芸術で身を立てるようになります。シュザンヌはとても強い性格の持ち主で、国民美術協会のサロンに出品した最初の女性画家となり、芸術家たちのコミュニティーで認められるようになりました。その息子のモーリス・ユトリロは祖母によって育てられましたが、祖母は赤ん坊がよく眠るようにとスープにワインを混ぜていたといいます。ユトリロがアルコール中毒になったのはそのためかもしれません。彼が絵を描くようになったのは、母シュザンヌのすすめで、暇つぶしに絵筆を持つようになった15歳のときのことです。そしてモンマルトルの道や広場をモチーフに、メランコリックな魅力溢れる風景画を残しました。この美術館が所蔵するユトリロの《ピガール広場》(1910年)は、ユトリロの作品のなかでも例外的な一枚といえましょう。光り輝く太陽が広場に面した建物を真っ白に見せ、小さな展示室を明るく照らすような作品なのです。呪われた芸術家といわれるユトリロも、この作品を描いたときは平穏で幸福な暮らしをしていました。それは彼の暗い人生では稀なことだったのです。
この小さな美しい美術館は、なぜこれほどまでに多くの芸術家たちがモンマルトルの丘にやって来たのか(そして現在でもやって来るのか)教えてくれます。彼らは、パリのなかでもとりわけ絵になる地区、モンマルトルにインスピレーション源を探して訪れ、その独特の雰囲気を作品を通じて再現したのです。
最後に皆さまにアドバイスをひとつ。モンマルトルにいらしたら、ぜひ観光ルートから離れた散策をお楽しみになってみて。ここには今なおまだ魅力的な場所が隠されています。古い家や蔦に覆われた壁、野趣あふれる庭、19世紀のままのブドウ畑、たくさんの詩人に音楽家、作家、画家──。皆さまもきっと、わたくしと同じように、モンマルトルの魅力を見つけられることでしょう。
友情を込めて。