Français 日本語
ポール・ベルモンド美術館マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
informations 3 2 1

親愛なる日本の皆さまへ

今回、わたくしはパリの西に位置するセーヌ河畔の町、ブーローニュ=ビヤンクールを訪ねました。映画のスタジオ、そしてフランスを代表する自動車メーカー、ルノーの工場があることで知られ、ニューヨークの自由の女神像の作者であるオーギュスト・バルトルディ(1834-1904)をはじめ、1930年代以降、著名な彫刻家たちが暮らした町です。かの有名な建築家マレ=ステヴァン(1886-1945)とル・コルビュジエ(1887-1945)が手掛けた数多くの建物も残されています。

現在、「彫刻の町」を自認するブーローニュ=ビヤンクールには、2010年、古典派の伝統を受け継ぐひとりの偉大な芸術家の美術館が新たに設立されました。有名な映画俳優ジャン=ポール・ベルモンド(1933-)の父親としても知られる、ポール・ベルモンド(1898-1982)です。ポール・ベルモンドの子どもたちから作品の大部分(彫刻、デッサン、メダル)の寄贈を受けた町は、ビュシヨ城を修復して、それらの作品を一般公開することにしたのです。18世紀、ルイ15世の治世下に建築されたビュシヨ城は、19世紀に裕福な銀行家ジェームス・ド・ロッチルド男爵の手に渡り、改修されて、男爵の広大な領地の一部に組み込まれました。

18世紀の壮麗な鉄柵門の向こうに見えるのは、ふたつの付属棟に挟まれた本館。輝くばかりの白亜の建物がシンプルで素晴らしい前庭を囲むように建てられています。隣には、ベルモンドと同時代の作品が飾られた彫刻の庭があります。残念なことに、もともとの庭の大部分は西自動車道の建設のために壊されてしまったため、現在の庭はその一部でしかありません。
建物の内部は第二次世界大戦中に損傷を受けましたが、大胆で近代的な改装が施されており、ベルモンドの作品を素晴らしく引き立てています。

ポール・ベルモンドは、1898年、イタリア人の両親のもと、庶民階級に生まれ、少年時代をアルジェで過ごしました。近所に大理石工のアトリエがあったことから、幼い頃からデッサンと彫刻に興味を持ちます。そして鍛冶屋だった父親がつくった道具を手に、12歳の時に最初の彫刻、犬の頭部を制作しました。初めはアルジェの美術学校に通っていましたが、第一次世界大戦で中断され、その後、1921年に奨学金を得て、パリの国立美術学校に入学。ここで、具象彫刻家のシャルル・デピオ(1874-1946)と出会い、決定的な影響を受けました。1926年にはいくつもの賞を受賞して、イタリアとギリシャに旅行し、古代と古典芸術を学びました。1930年にマドレーヌという女性と結婚し、3人の子に恵まれると、子どもの肖像彫刻を数多く制作するようになりました。

芸術家としての成功を手にしたのは、1937年、パリ万国博覧会の開催に際してのことです。ベルモンドは国家からの注文を受け、シャイヨー劇場のファサードを飾る《ダンス》と題する作品を制作したのです。第二次世界大戦の最中には、ほかのフランス人芸術家たちとともにドイツに研修旅行に行きましたが、戦後、そのことを巡って批判を受けることとなりました。1947年には、パリ造幣局の注文で最初のメダルを制作し、その後1981年まで造幣局の仕事を続けました。また、芸術家としての活動を続ける一方で、1952年、国立美術学校のデッサンの教授となり、1960年には美術アカデミーのメンバーにもなりました。1964年に制作したカルポーの《ダンス》の複製彫刻は、オルセー美術館所蔵のオリジナル作品に替わって、今なおオペラ座のファサードを飾っています。1976年にはパリの造幣局内で、ベルモンドの大回顧展が行われました。そして1982年にこの世を去ると、その才能に敬意を払い、彫刻家マイヨール(1861-1944)と同じように、2点の彫刻《ガールスカウト団員》と《運動選手》がチュイルリー公園に設置されました。

ページトップへ