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カミーユ・クローデル美術館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。バックナンバーを読む
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この天才的な芸術家の名誉を回復するために、美術館は芸術家としてのカミーユ・クローデルの歩みを余すところなく伝えています。パティオの上の通路には、皺の刻まれた顔を見事に表した《年老いたエレーヌ》(1881-1885年頃)が展示されています。カミーユが20代のときに制作した写実主義の痕跡が残る作品で、この作品がロダンを驚かせたのです。

ガラスケースには、互いに影響を与え、調和し合ったふたりの芸術家の作品が展示されています。ロダンの《かがむ女》(1881-1882年頃)と同じ主題のカミーユの作品(1884-1885年頃)には、互いの影響が見て取れます。しかしまた、ロダンの《永遠の春》(1884年)や《永遠の偶像》(1889年)が、カミーユの《心からの信頼》(1886年頃)に影響を与えながらも、感性は異なっていることも、よく分かります。

次の展示室にはたくさんの胸像が展示されています。2体の胸像があるカミーユの弟、ポール・クローデル(1868-1955)は著名な作家で、1922年、在日フランス大使ともなった人物です。1体は1884年、16歳のポールの姿を刻んだもので、新フィレンツェ派の影響が感じられます。もう1体は1905年、37歳の成熟した男性としてのポールが表現されています。うねった立派なあご髭のあるロダンのブロンズ像は、巨匠の力強さが表現された、もっともよく知られるロダンの肖像のひとつです。展示室の中央にある《小さな女城主》(1895-1896年)は、発表後すぐに成功をおさめた作品です。モデルとなったのは、ロダンとカミーユが1890年から1893年に滞在したリレットの城の所有者の孫でした。カミーユはこの作品をもとにいくつか異なるバージョンを制作しており、そのうちのひとつ《暁》(1900年頃)はブロンズ製のモデルと、緑に着色されたブロンズ製のものが美術館に展示されています。これらの作品に見られる子供の髪や顔のなめらかで柔らかい表現を見ると、カミーユが師ロダンの影響から遠ざかっていたことがよく分かります。

空間全体を、カミーユの傑作《ワルツ》(1889-1905年)にあてた展示室があります。4点の作例(石膏、ブロンズ、砂岩)があり、絡み合うふたつの身体が、めまぐるしく旋回しながら調和し、音楽のリズムを感じさせるこの作品の見どころを余すところなく伝えてくれます。

ここから1階に下りると、胸を打つような素晴らしい作品《嘆願する女》(1894年頃)があります。これはカミーユ自身を表現したもので、腕を伸ばし、愛人に傷つけられ、捨てられた彼女の苦悩が表現されています。この見事な彫刻は《分別盛り》(1890-1907年)に組み込まれます。これはロダンとの別れを象徴する作品です。男(ロダン)に、年老いた愛人(ロダンの妻ローズ・ブレ)の腕が絡み付き、すがる若い女性から離れてゆきます。
最後の展示室には、日常生活から着想を得た習作が展示されています。《おしゃべりな女たち》(1893-1905年頃)で、カミーユは耳打ちしながら内緒話をしているように見える4人の女性を描いています。ロダンと比較されることを嫌った彼女は、意識的にそのスタイルをロダンから遠ざけていきました。扱いづらい素材を用い、彫刻家としての道のりは、巨大で凄まじい大理石の群像《ペルセウスとゴルゴン》(1897年頃)で終わります。首を斬られたゴルゴンで、老いゆくカミーユ自身の顔を表現したこの作品は、精神の破綻の前触れだったのかもしれません。

このミュゼでは、カミーユ・クローデルを彼女の時代の彫刻家たちの流れに置き直すことによって、カミーユがいかに重要な芸術家で、普遍的かつ独自の制作言語を備えていたかを見せてくれます。また、ロダンとカミーユというふたりの恋人たちの間には、信じがたいほどのライバル意識があったことも明らかにしています。決別の後、カミーユは師の美学からは離れますが、カミーユの並外れた創作力は今、この美術館に確かに記録されているのです。

友情を込めて。

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Update : 2017.8.1

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