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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

パリ南西50km──文化省による「素晴らしい庭園」に認定された、150ヘクタールに及ぶ庭園の中に佇むランブイエ城は、古くはフランス王宮として、その後は大統領の夏の別邸として使われていたシャトーです。城を取り巻く豊かな森は、狩りの獲物の宝庫として知られ、フランス史にその名を刻む人々を魅了してきました。フランソワ1世、ルイ16世、ナポレオン1世などは皆、大の狩猟愛好家だったのですよ。庭園内にあるふたつの小さな、けれども他に類を見ない建物も見逃せません。王妃マリー=アントワネットの乳製品加工所と貝殻で飾られた田舎家です。また、ランブイエ城の内装、とりわけ19世紀当時のように家具を整えられたナポレオン1世のアパルトマンは、非常に興味深いもの。国立モニュメントセンターの指揮のもと、外観も大規模な改修工事を施されたばかりです。

シャトーの歴史は14世紀にまで遡ります。1368年、国王シャルル5世(1338-1380)の顧問ジャン・ベルニエ(-1384)が、田園の小さな館を購入し、堀を巡らせて城塞に改築しました。1384年、この城塞はダルジェンヌ家の手に渡り、その後3世紀にわたってこの一族が所有することになります。そのうちのひとり、ジャック・ダルジェンヌ(1514-1562)は、城塞の1階にイタリア風の素晴らしい広間をつくり、レンガと石の大階段を設置しました。当時、城壁に囲まれた城の領地は5ヘクタールにのぼり、狩猟に最適な場所となっていました。この城を大変好んだフランソワ1世は、しばしばここに滞在し、1547年にこの城で亡くなりました(死因は感染症でした)。

ランブイエの所領はルイ13世(1601-1643)に奉仕したことの褒美として、1612年、侯爵領に格上げされました。文学サロンで有名なランブイエ侯爵夫人(1588-1665)が城で演劇を上演していたのもこの時代のことです。1699年には、財務知事のジャン=バティスト・フルリオ・ダルムノンヴィル(1660-1728)が城を手に入れ、フランス式庭園を造園し、素晴らしい眺望を整備しています。しかし1706年、ダルムノンヴィルは領地をルイ14世(1638-1715)とモンテスパン夫人(1640-1707)の嫡子、トゥールーズ伯爵(1678-1737)に譲ることを余儀なくされます。伯爵は国王や宮廷人たちを迎えることができるように城を近代的に改築しますが、結局、国王が行幸されたのはわずか2回でした。伯爵は1730年から1736年にかけて、極めて洗練された内装を施した続き部屋「集会のアパルトマン」を新設し、その翌年の1737年、ひとり息子のド・パンティエーヴル公爵(1725-1793)に領地を譲ります。ド・パンティエーヴル公爵は庭園の美化に努め、運河を巡らせ、島をつくり、橋を架けました。曲がりくねった道沿いに庭園を散歩していると、小さくて不思議な建物が現れるようになります。これは「ファブリック」と称される建物で、中でも貝殻で飾られた田舎家は際立っています。

ド・パンティエーヴル公爵は、ルイ16世(1754-1793)の従兄弟に当たる人物ですが、1783年には、狩猟を好んだルイ16世に、かなりの額でランブイエ城を譲っています。国王は数多くの使用人のための広大な別棟と500頭の馬を収容することのできる新しい厩舎を建築させました。そして、王妃マリー=アントワネットがこのシャトーを気に入るようにと、かの有名な乳製品加工所と実験農場を造らせました。実験農場には近代的な羊小屋を設け、羊毛の質を改良するためにスペインからメリノ種の羊を輸入。さらに、芸術家ユベール・ロベール(1733-1808)に依頼して、庭園を王妃の好むイギリス式庭園に改造させたのです。

Update : 2018.8.1

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