入り口の左手の食堂には、フランス海軍から贈られたアンフォラ(紀元1世紀)と、ド・ゴール将軍の生まれ故郷リールの国際見本市より1966年に贈られた鋼製の雄鶏が飾られています。ド・ゴール将軍はここで大きな暖炉(その一部は17世紀のものです)に背を向け、田舎風の食器棚の上に飾られた、かの有名な《貴婦人と一角獣》(16世紀初頭)の複製を眺めたかもしれませんね。
次は、入り口の右手にある明るいサロンへと参りましょう。王政復古時代のスタイルの家具は、イヴォンヌ・ド・ゴールの家族から受け継がれたもの。窓の左手にあるガラスケースには、宗教美術が並んでいます。中でも15世紀の木製の見事な《ピエタ》は、西ドイツの首相コンラート・アデナウアー(1876-1967)からイヴォンヌへの贈答品です。彼は、ラ・ボワスリーに迎えられた、ただひとりの公式な客人でした。1958年9月のことです。戦争の記憶が生々しかったあの時代に、ド・ゴールは彼を友人として迎えたのです。この異例の振る舞いこそが、仏独の和解を証明すると同時に、ヨーロッパを構築するというド・ゴールの意志も表していたのです。
図書室はド・ゴール夫妻がアフタヌーンティーを楽しんだり、夕方にテレビでニュースを見たりする場所で(当時はふたつの局しかありませんでした)、かつては椅子が2脚しかありませんでした。蔵書には歴史書や古典作家の著作が並びますが、そこに混じって、ド・ゴールが置いた各国首脳(チャーチル、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソンなど)の献辞入り写真があります。窓の横にはブリッジ台がありますが、ド・ゴールは1970年ここで亡くなりました。
家の中で最も感動的な部屋は、八角形の塔にあるド・ゴールの仕事部屋でしょう。マホガニー製の仕事机が部屋の中央に鎮座しています。机はド・ゴールの背丈に合わせて高くしてあり、肘掛け椅子は窓に向かって置かれています。ド・ゴールはここにひとりで静かに座り、西方15km先まで続く風景を見渡したことでしょう。晩年は、『希望の回想』の執筆にあたりましたが、脱稿には至りませんでした。部屋を出たら、当時のように休耕地のままの畑を迂回し、野の花々を見ながら庭を一回りしてみましょう。遠くにロレーヌ十字、そしてシャルル・ド・ゴール記念館が見えます。
見学の仕上げに、ロレーヌ十字の麓にあるシャルル・ド・ゴール記念館まで足を延ばしてみましょう。
ロレーヌ十字へは記念館の横にある階段からも行くことができますが、記念館の新しい館長のブレゴー氏は、直行の展望エレベーターでご案内くださいました。
44mもの高さの十字は、鉄筋コンクリート製で垂直の断面はブロンズ、全体がバラ色の花崗岩で覆われています。その大きさには、ただただ驚かされるばかりです。およそ35ヘクタールもの緑が広がるこの素晴らしい場所で、ド・ゴール将軍の死後18ヵ月後の1972年、ロレーヌ十字は除幕されました。十字は将軍自身、そしてレジスタンスとして戦ったすべての人々へ捧げられています。ロレーヌ十字は、フランスのレジスタンス運動の象徴なのです。2008年に開館した記念館は、オート・マルヌ地方の自然に開かれ、その素晴らしい環境に溶け込んでいます。
記念館の見学は3階から始まります。最新のテクノロジーと目を見張るような演出が、見学者をシャルル・ド・ゴールの人生へと誘います。展示は年代順に分かれています。始まりはド・ゴールが魅了されたこの地方の風景の、さまざまな季節の写真です。彼はこの地の田園風景をこよなく愛し、自然の中での散策を好みました。そうすることで彼は穏やかな気持ちと、執筆を続ける力を取り戻すことができたのだといいます。
ここでは、ド・ゴールの人生を辿ってみることにいたしましょう。ド・ゴールは、カトリックへの信仰篤い上流家庭に生まれ、教育を受けました。1908年、彼はサン・シールの軍事学校に入学。第一次世界大戦のはじめ、大尉に昇進します。展示室に再現された塹壕が、戦場でのド・ゴールの生活を彷彿とさせ、彼が母親に宛てた手紙も、当時の貴重な証言となっています。
ド・ゴールは、戦闘中に2度にわたって負傷し、ドイツの捕虜になります。そして逃亡を5回試みた後、1918年11月11日、休戦の日に釈放されました。1921年、彼はイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚し、三人の子供に恵まれたのです(中央パネルに写真があります)。
Update : 2019.10.1
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