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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

バカンスで南ブルターニュを訪れた折、「東インド会社博物館」という、わくわくするようなミュゼを発見しました。ロリアン市の歴史と美術を扱うこのミュゼがあるのは、ルイ13世(1601-1643)の時代に王家の都市とされたポール=ルイ(ポール港)の、とても印象的な城塞。16世紀にスペイン人によって建てられ、1618年から1620年の間にフランス人が改築した建造物で、四方にある長方形の砦で港を防衛し、第二次世界大戦末まで武器庫として使われていました。1948年に歴史的建造物に指定され、現在では海洋博物館も入っています。

東インド会社に関する博物館は、フランスでも唯一のもので、17世紀と18世紀のヨーロッパの大貿易会社の、とりわけ1666年にロリアンに置かれたフランス東インド会社の類いまれなる冒険の足跡を紹介しています。展示方法はとても明快で、フランス東インド会社がヨーロッパとアフリカ、アジア間の貿易において果たした決定的な役割がよく分かります。さまざまな大陸から持ち込まれた多種多様な品々、船の模型、航海に使う道具といった品々を通じて、この時代について知ることができるのです。

博物館は東洋・西洋間の貿易路の紹介から始まります。その一部は古代まで遡ります。香料の交易路、シルクの交易路(シルクロード)、スパイス(胡椒、クローブ、ウコン、コーヒーなど)の交易路、磁器の交易路などです。ラクダ(中国、唐王朝、618-907年)の姿を見てわたくしは、キャラバンについて思いを馳せずにはおれませんでした。15世紀には、ポルトガル人がインドへの海路を探り、1498年、大航海家ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)が喜望峰経由でカリカットへ到達します。彼らは危険を顧みずに、中国のマカオ、日本の長崎にまで航海をし、ポルトガルの港は東洋由来の商品の入り口となりました。その後、ポルトガルの後を追って、イギリスとオランダがそれぞれ自分たちの貿易会社をつくります。イギリスはインドに拠点を置き、オランダはアジア全体に影響を及ぼしました。オランダが日本との交易ルートを築き、その後、貿易を独占したことは、皆さまよくご存知のことでしょう。

ふたつ目の展示室は、有名な大臣で宮内卿、ルイ14世の財務総監のジャン=バティスト・コルベール(1619-1683)による東インド会社の設立に充てられています。コルベールの楕円形の肖像画(フランスの画家、18世紀)をご覧ください。他国に遅れをとったフランスの威光を取り戻そうとした国王は、フランス東インド会社に貿易の独占権と数々の特権を与えます。コルベールの求めに応じ、同社はポール=ルイに置かれました。同社を象徴する最初の船舶、「東の太陽号」(800-1000トン)の模型が、創業当時の困難を物語っているかのようです。事実、この船は設計が悪かったといい、完成の何日か後にマストが倒れてしまうほど。1671年に予定より1年遅れて出航し、アジアへの航海を2度、敢行しましたが、マダガスカル付近で行方不明になり、港へ戻ってくることはありませんでした。17世紀末、フランス東インド会社は倒産してしまいます。その後、18世紀には財政家のジョン・ロー(1671-1729)がフランスの国営貿易会社全体を統合し、インド会社を設立しました。けれども、ローによって講じられた投機財政システムの犠牲となって、この会社もまた倒産の憂き目に遭うのです。そして1793年、インド会社の交易独占はついに終わりを告げ、東洋との交易は全てのフランス人に開かれたものとなりました。

※「フランス東インド会社」の名称は、時代により呼び名が異なります。

Update : 2019.12.2

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