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  ブールデル美術館とブールデル庭園美術館  
 
   
Chers Amis

日本では今、彫刻家アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)の巡回展が催されているそうですが、皆さま、もう足をお運びになりましたか?フランスが誇るこの彫刻家の世界を皆さまにより楽しんでいただきたく思い、今回、わたくしはブールデルゆかりのふたつのミュゼを訪ねてみました。パリのブールデル美術館とフォンテーヌブローの森のほど近くにあるエグルヴィルのブールデル庭園美術館。皆さまがこのお手紙を通じてその魅力に触れ、巡回展とあわせてお楽しみいただけたら嬉しく思います。
▲パリ、ブールデル博物館の庭
©A. de Montalembert
▲パリ、ブールデル博物館の入り口。
©Musée Bourdelle / André Morin
アトリエ美術館という言葉は、まさにパリのブールデル美術館のための表現といえましょう。近年、文化省によってミュゼ・ド・フランスのひとつにも認定されたこのミュゼへは、モンパルナスの賑やかな一画、パリ15区からアントワーヌ・ブールデル通りへ入り16番へ。かつては「メーヌの袋小路」と呼ばれていたこの道は、人影もまばらな閑静な通りですが、あたりを見回すと現代的な建物が多いことに気付かされます。今は亡きブールデルがここに現れたとしても、かつて自らが暮らし、制作に励んだアトリエがあったのがこの通りだとは思わないでしょうね。

ブールデルが越してきた頃、この地区には数多の芸術家のアトリエがありました。お隣には画家のウジェーヌ・カリエール(1849-1906)がいましたが、そのアトリエは今、ブールデル美術館の一角に保存されています。幸いにも在りし日のままの姿をとどめ、彼らが暮らし、創作に没頭していた頃の親密な雰囲気を宿すアトリエ、そしてブールデルの記憶にあるがままの空間──この場所で、ブールデルは制作に没頭していたのですね──その姿が眼に浮かぶようでした。
   
   
アントワーヌ・ブールデルは1861年モントーバンに生まれ、13歳の頃から、家具職人で木彫家でもあった父親の仕事を手伝い始めました。1884年にはパリのエコール・デ・ボザールに入学し、彫刻家ファルギエールのアトリエに入ります。あの「メーヌの袋小路」に、生涯を過ごすことになるアトリエを構えるのは、その翌年のことでした。そして1893年、ブールデルは運命的な出会いをします。ロダンとの出会いです。以降、共同制作者、そして友となった20歳年上のロダンとの出会いは、ブールデルの進むべき道を示すものでした。≪1870〜71年の戦争におけるタルン・エ・ガロンヌ県兵士記念碑≫を発表した時のように、ブールデルの作品はしばしば酷評の矢面に立たされましたが、ロダンは常にブールデルのよき理解者でした。しかし、ブールデルはやがて、師ロダンの影響から脱してゆくことになります。アルカイック期の古代ギリシア美術とロマネスク美術を好み、彫刻の建築学的な構成に基づいた素朴で力強いブールデルのスタイルは、当初はあまり理解されませんでした。
▲パリ、ブールデル博物館を表通りから望む。
©A.de Montalembert
▲≪瀕死のケンタウロス≫(1911-1914)のあるブールデルのアトリエ。
©Musée Bourdelle / André Morin
ようやくその名を知られることになったのは、1909年以降、≪弓を引くヘラクレス≫(1909)や≪瀕死のケンタウロス≫(1911-1914)といった作品で成功してからのことでした。シャンゼリゼ劇場建設の計画にも参加し、1910年から1913年にかけてこの劇場のために作品を制作しました。大理石の浅浮彫りの数々や、神話からインスピレーションを得て作られたフリーズなどは、今日でも鑑賞することができます。

ブールデルの名は、多くの展覧会を通じて世界に広まってゆきました。アメリカでは1925年の展覧会以降に熱烈な愛好家が生まれましたが、日本でも、大阪で開催されたフランス美術展などを経て、ブールデルの人気はアメリカ並みに高まってゆきました。
そうした活躍と時を同じくして、彼は弟子をとるようになります。ジャコメッティ、ヴィエイラ・ダ・シルヴァ、ジェルメーヌ・リシエといった素晴らしい芸術家が彼のもとを巣立ってゆきました。こうして、ブールデルは1929年にこの世を去った時には、もっとも偉大なフランス彫刻家のひとりと目されるまでになっていたのです。
   
その後、ブールデルの作品は少しずつ忘れられてゆきました。そんななか、1949年にブールデル美術館が開館した背景には、彼の妻の熱い想いがありました……彼女はブールデルのアトリエとアパルトマン、作品をパリ市に寄贈したのです。さらに時を経て、彼の娘からの寄贈や遺贈を受けて、1961年、そして1992年に美術館は改装され、より広いスペースを得ることとなったのです。ブールデルは生前、自らの作品を飾る美術館の設立を夢見ていたそうです。彼の家族はブールデル芸術を忘却という魔力から救い、そして芸術家の夢までも叶えたのですね。
 
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