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ヴォー=ル=ヴィコント城 backnumber
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▲ヴォー=ル=ヴィコント城
©R. Mazin
親愛なる日本の皆さまへ

この度、わたくしは一冊の本に誘われて、ヴォー=ル=ヴィコント城を再訪いたしました。その本とは、知人であるヴォギュエ伯爵夫人が上梓なさった『ヴォー=ル=ヴィコントの美味しい思い出』というお菓子のレシピ本。この素晴らしい本は、皆さまにもぜひご覧になっていただきたく、銀座のメゾン・デ・ミュゼ・ド・フランスにお送りしましたので、楽しみになさっていてください。ヴォギュエ伯爵夫人が日本の皆さま宛に献辞を入れてくださったのですよ。



▲ヴォー=ル=ヴィコント城の南側ファサード
© Béatrice Lécuyer Bidal

▲MMF宛に著書に献辞を記すヴォギュエ伯爵夫人
©A. de Montalembert

▲ヴォギュエ伯爵夫人サイン入りの美しいお菓子のレシピ本は、MMFでご覧いただけます。


▲城主のヴォギュエ一家
©T. Pinskaia

17世紀建築の傑作と謳われるヴォー=ル=ヴィコント城は、パリからおよそ50km、車で小1時間ほどの地にあります。現在はヴォギュエ伯爵夫妻とそのご子息らが所有するこの美しい古城は、17世紀、ルイ14世(1638-1715)の大蔵卿ニコラ・フーケ(1615-1680)が建てさせたものでした。そのあまりの豪奢さに、国王はたいそう嫉妬し、フーケは不興を買ったというエピソードは皆さまもご存知でしょう。「ヴォー=ル=ヴィコント城がなければ、ヴェルサイユは存在しませんでした」と、ヴォギュエ伯爵夫人がおっしゃるのももっともなこと。この城は、建築、室内装飾、庭園芸術の分野でヴェルサイユ宮殿のモデルとなり、3つの分野それぞれの歴史において、極めて重要な位置を占めているのですから。

丘陵の谷間に建つ城を目指して歩いていると、突然、わたくしたちの目の前にお堀とテラスに取り囲まれた壮麗な姿が現れました。その美しさ、そして壮大な佇まい──わたくしは、大きな衝撃を覚えずにいられませんでした。この傑作を造るにあたって、フーケは当代随一の芸術家3人を結集させました。建築家ルイ・ル・ヴォー(1612-1670)、画家シャルル・ル・ブラン(1619-1690)、造園家アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)です。並外れて大規模な建設工事は6年弱の歳月を要しました。


▲堀に囲まれたヴォー=ル=ヴィコント城
©Yann Arthus Bertrand

▲城の概観(銅版画)
© Béatrice Lécuyer Bidal


▲ダイニングルーム
©O. Blondeau

ドームを頂く中央の建物と両端の棟にはイタリア建築の影響が色濃く見られます。ここには、ル・ヴォーによる、さまざまな新しい試みが見られます。例えば、かの有名な楕円形のサロンを挟んでふたつに分かれた母屋を造り、それぞれの間取りをほぼ同じにしました。一方が国王のアパルトマン、反対側はニコラ・フーケのアパルトマンとなっています。ダイニングルーム(ビュッフェの間)も忘れてはなりません。ダイニングルームはそれまでの城にはない空間でした。


▲「方形大寝室」
© J.P Chasseaux

城の見学は、「豪奢のアパルトマン(フーケの居室群)」より始まります。まずは「方形大寝室」へと参りましょう。ルイ13世時代のスタイルに塗られた格天井が当時のままに残されています。赤大理石の台座の上の、彫刻が施されたオーク材の楕円形テーブルふたつは、この城から出たことのない数少ない品です。続いて、ル・ブランの手による見事な装飾が施されたサロンへ。ル・ブランのたぐいまれな才能は、とりわけ「ミューズの間」で存分に発揮されています。芸術家や詩人に霊感を与える女神の名を冠したサロンにふさわしく、天井では、色彩と動きが豊かに戯れています。壁には《アミンタとシルヴィア》(1635年頃)を題材にした有名なタピスリーが5点飾られています。そして、わたくしがとりわけ感銘を受けたのは、「ゲームの小部屋」です。優美で洗練された小さな部屋の天井には、やはりル・ブランの手による《眠り》が描かれています。「ヘラクレスの控えの間」には、たくさんの彫刻が飾られていますが、そのひとつ、ジラルドン(1628-1715)作のブロンズ製のルイ14世騎馬像は、革命期に失われたヴァンドーム広場のモニュメントの模型です。


▲「ミューズの間」
© D.R

▲「ミューズの間」の天井
© D.R


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