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コンシエルジュリーとサント=シャペル バックナンバーを読む
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▲コンシエルジュリー、セーヌ側ファサード、メジスリー河岸からの眺め
©Centre des Monuments Nationaux, Philippe Berthé.
親愛なる日本の皆さまへ

セーヌ河に浮かぶ、シテ島。パリの中心に位置するこの島に、かつて、広大な宮殿があったことを皆さまはご存知でしょうか。コンシエルジュリーとサント=シャペルは、在りし日の宮殿の名残なのです。最初に造られた王宮、パレ・ド・ラ・シテ(シテ島の宮殿)は、長い歴史の中で改築を重ねましたが、とりわけ、サン・ルイ(1214-1270)とフィリップ4世(1268-1314)の治世には、その姿を大幅に変えることとなりました。中世末期に、王がこの宮殿を離れると、王国の行政機関のみここに残り、日々の訴訟を裁く「コンシエルジュ」がその長を務めていました。「コンシエルジュリー」という名前の起源はここにあります。


▲かつてサント=シャペルにあったサン・ルイの像
13世紀、国立中世美術館所蔵
©RMN / Franck Raux

コンシエルジュリーといえば、大勢の囚人たちを監禁してきた牢獄として有名です。中でも、フランス革命の際に王妃マリー=アントワネットが幽閉されたことは、皆さまもよくご存知でしょう。19世紀には、パレ・ド・ラ・シテは、火事やセーヌ河の増水といった災害に見舞われ、幾度も改築を繰り返しました。今日、その一部は裁判所として使われています。


▲《花市、ロルロージュの塔、ポン=オ=シャンジュ、ポン=ヌフ》1832年、ジュゼッペ・カネーラ作、カルナヴァレ美術館所蔵
©RMN / Agence Bulloz

▲《寡婦の服装をしたマリー=アントワネット王妃。コンシエルジュリーの牢獄にて》1793年、ヴェルサイユ宮殿所蔵
©RMN (Château de Versailles) / Gérard Blot

▲サント=シャペルと裁判所
©A. de Montalembert

▲セーヌ河とコンシエルジュリー
©A. de Montalembert

セーヌ河の対岸からコンシエルジュリーを望むと、その堂々たる姿に感銘を受けます。ロルロージュ河岸に沿って伸びるファサードをよくご覧になって。異なる時代に建てられた部分(中世に建てられた4つの塔と19世紀に造られた部分)が混在しているにもかかわらず、見事なハーモニーを奏でているのです。4つの塔のいちばん西側、サン・ルイの時代に造られた「ボン・ベックの塔」は、銃眼のある唯一の塔です。「ボン・ベック」とは「おしゃべり」の意味で、ここで囚人に自白をさせたことに名前の由来があります。中央に並ぶのは、フィリップ4世の時代に建設された「銀の塔」と「セザールの塔」。恐ろしい独房が置かれた場所です。


▲「ロルロージュの塔」の大時計
©A. de Montalembert

そして、ロルロージュ河畔とパレ通りの角にある「ロルロージュ(大時計)の塔」(1350年)は、1370年にフランス王がパリで最初の公共の時計を設置したことでとてもよく知られています。1585年には、ルネサンス期の最も重要な彫刻家のひとり、ジェルマン・ピロン(1528-1590)が文字盤周りの装飾を手がけ、正義と法を表すふたりの人物像を制作しました。


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