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シャトーブリアンの家―ラ=ヴァレ=オ=ルーマダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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親愛なる日本の皆さまへ

フランスを代表する文豪フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(1768-1848)は、自然の描き方、そして精神や感情の分析という点で、フランス・ロマン主義の先駆者とみなされています。政治家としての活躍も知られていますが、何よりもまず、ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)をして「天才」と言わしめた大作家でした。シャトーブリアンの並外れた個性とドラマチックな人生を知るためには、その著作を読むことはもちろん、パリ圏のシャトネ=マラブリーにある領地ラ=ヴァレ=オ=ルーをお訪ねになることをお勧めいたします。

18世紀から19世紀という時代の転換期に生きたシャトーブリアンは、アンシャン・レジーム、フランス革命、帝政、王政復古と、フランス史をつくり上げた数々の体制を経験しました。生まれはブルターニュ地方のサン=マロ。この地に建つコンブール城で、子ども時代の一時期を過ごしましたが、この城は後年のシャトーブリアンの夢想やメランコリックな思索の源泉となりました。その後、フランス革命の暴力と残虐さに嫌気がさしたシャトーブリアンは、1791年、アメリカへと出立します。折しもアメリカでは共和制が生まれつつあり、それが彼の政治思想に大きな影響を与えることとなりました。しかし、初めて見る美しく広大な風景も、失った故郷への思いを強めるだけでした。フランスに戻ったシャトーブリアンは、王党派の軍隊に参加し、共和派の軍隊と戦って負傷してしまいます。そして1793年から1800年には渡英し、彼の地で処女作『革命試論』(1797年)を出版。同時に『キリスト教神髄』の執筆を始めます。思考の自由を認めつつも、キリスト教が精神的純粋性によって異教よりも優れていることを論証したこの作品の成功は、革命後の宗教回帰的な傾向を示しているといえましょう。

政治家としてのキャリアは波瀾万丈でした。1803年、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)によって在ローマ・フランス大使館付書記官に任命されますが、翌年、皇帝の独裁政治に反対の意を表明するために職を辞します。その後1806年、中東を旅し、ギリシャ、コンスタンティノープル、エルサレムまで足をのばします。そして1811年には『パリからエルサレムへ』を出版しますが、この作品を読むと、彼が異国の文物を好み、未踏の地を訪ねることに深い関心を抱いていたことがよく分かります。シャトーブリアンが反ナポレオンの記事を出版し、パリを離れることを余儀なくされたのは、1807年のこと。そして、ラ=ヴァレ=オ=ルーの領地を購入するのです。庭と庭師の簡素な家が佇むだけだったこの領地で、彼は妻のセレストと10年間暮らすことになりました。代表作『墓の彼方からの回想』の執筆を始めたのも、ラ=ヴァレ=オ=ルーの地に移り住んでからのことでした。

シャトーブリアンはその後、1811年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出されるものの、反ナポレオンの意を表明するためにこれを辞退します。彼が政治職に返り咲くのは、王政復古の後のことです。ルイ18世(1755-1824)の治世下、シャトーブリアンは国務大臣と貴族院議員に任命されました(1815年)。しかし政府と意見が対立し、再び解任されます。その結果、経済的に困窮した彼は、友人であったかの有名なレカミエ夫人(1777-1849)の仲介で、1818年にラ=ヴァレ=オ=ルーを夫人と非常に親しかったマチュー・ド・モンモランシーに売却することになりました。 シャトーブリアンと王政との関係は混沌としていました。対立したかと思えば、さまざまな役職(在ベルリン大使、在ロンドン大使など)に就くこともありました。それでも、1830年代には彼の政治家としてのキャリアは終わり、その後は回顧録の執筆に没頭しました。没後は、生前に彼が望んだとおり、サン=マロ沖の島にひとり葬られました。この島には引き潮の際に歩いて行くことができ、彼の墓は今なお愛好家巡礼の地となっているのです。

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