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ブランクーシのアトリエ─ポンピドー・センターマダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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親愛なる日本の皆さまへ

パリの中心にあるポンピドー・センターは20世紀建築を象徴するモニュメントとして世界にその名を知られる存在。皆さまに改めてご紹介するまでもないでしょう。ここで、ひとつお伝えしたいのは、美術館の前にあるストラヴィンスキー広場が、ポンピドー・センターという近代建築と、歴史的建造物が建ち並ぶ地区とを橋渡しする上で非常に重要な要素となっているということです。音楽を演奏する人、パントマイムをする人、大道芸人などが集まり、たくさんの人で賑わうこの広場は、まさに現代のアゴラ(古代ギリシアの広場)と言えましょう。そして、喧噪と人ごみに疲れたら、静寂と芸術を求め、ランビュトー通りから階段を下りたところ、広場の横にある白壁の小さな建物にお入りになってみてください。ここが、今回、皆さまをご案内する「ブランクーシのアトリエ」。まるで隠れ家のような親密な雰囲気で、芸術家の作品を鑑賞するにふさわしい空間です。

コンスタンタン・ブランクーシ(1876-1957)は、エコール・ド・パリの芸術家で、20世紀で最も重要かつ最も影響のある彫刻家のひとりです。同時代の芸術の動向から脱し、純粋で完全な形態を求めて、彫刻の世界に抽象表現を取り入れました。
農家の息子としてルーマニアに生まれたブランクーシは、幼い頃から山で羊飼いをしていたといいます。その後、さまざまな職を転々とした後、1898年にブカレストの美術学校に入学。1902年に学位を得ると、ミュンヘンへ、次いでパリへと向かい、1904年にパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学します。1907年にはロダンのアトリエで1ヵ月間修業しますが、その影響から脱し、非常にシンプルな独自の様式を築きます。1916年にはモンパルナス地区のアトリエに居を定めます。年を追うごとに、また必要に応じて、ブランクーシは次々とアトリエの場所を変えますが、常に同じモンパルナス地区に留まりました。ブランクーシの作品の大部分は、このパリ15区のさまざまなアトリエで制作されたのです。

石や大理石を直接刻むという方法をとっていたブランクーシは、40年以上にわたり完璧を求めて同じテーマを発展させていきます(「接吻」「鳥」「雄鶏」「終わりのない円柱」など)。彼はフォルムを極限まで単純化し、台座を彫刻に組み込み、作品の上部と下部という序列を排除しました。空間の中で彫刻が占める位置を気遣い、場所に応じて台座や向きを変え、写真に記録しました。1920年にはアトリエを公開します。

伝統的な彫刻の概念から逸脱した彼の様式は、1926年以降、激しい批判に晒され、アメリカ合衆国での販売が困難になるという事態が生じました。ブランクーシの彫刻が芸術作品か否かを問う裁判まで開かれますが、1928年、ブランクーシ側が勝訴。彼の彫刻作品は、“実用品”として課税対象となる金属片ではなく、芸術作品であるとして認められ、自然を模倣するのではなく抽象的な概念を表現するという彼の芸術についての考え方がようやく理解を得たのです。

1950年、ブランクーシのアトリエは大きな損傷を受け、閉鎖せざるを得なくなりました。そして1957年にブランクーシが亡くなると、アトリエは当時のまま復元することを条件にフランス国家に寄贈されました。ブランクーシは、アトリエにおいて彼のすべての作品が作り出す芸術的調和を重視したため、作品が散逸することを望みませんでした。空間における作品の存在感や台座との組み合わせそのものが非常に重要であったので、ひとつひとつの作品は、ブランクーシによって入念に決められた場所に置かれていなければならなかったのです。晩年にある作品を売った際には、同じ作品を石膏で作り直して代用品として置いたほどでした。このようにアトリエはそれ自体がひとつの芸術作品となっているのです。

Update : 2015.2.1

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