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ユゼス城―デュシェ(公爵領)マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

かの有名な水道橋ポン・デュ・ガールのほど近くにあるユゼスという美しい町をご存知でしょうか。プロヴァンス地方とセヴェンヌ山脈の間、より正確にはアヴィニョンとニームの間に位置する、フランス遺産の至宝のひとつです。灌木林とブドウ畑が広がる風景の中に、歴史的建造物が軒を並べるこの町は、芸術と歴史の町として名高く、最近、よく知られるテレビ番組で、フランスで最も美しい100の景勝地のひとつとして紹介されていました。中世の小道や、17世紀、18世紀の美しい邸宅が残るユゼスには、豊かな文化財と美しい景色を求めて数多くの観光客が訪れます。町の中心には、フランスで唯一「デュシェ(公爵領)」と呼ばれる誉れ高きシャトーがあります。堂々たる佇まいのこの城は、中世に建てられたもので、500年前から、クリュソル=ユゼス家というフランス史で重要な役割を果たした一族が代々所有しているのです。

古代ローマ時代より、もともと要塞都市だったユゼスの小都市は、ユール川という小さくも豊かな流れの川の恩恵を受けながら発展してきました。紀元前50年頃には、古代ローマ人たちはこの水をニームの町を潤すために利用することにしました。そのために、50kmに渡る水道橋を建設しましたが、これが今なおその素晴らしい姿を残している有名なポン・デュ・ガールです。4世紀には、この地域にカトリックが広まり、5世紀にユゼスは重要な司教区となります。司教たちは、中世に領主が現れるまで、政治的に大きな役割を果たしました。1229年に、町はフランス王国の一部となり、フランス国王側について数々の戦争に参加。その忠誠への見返りとして、ユゼスの君主は子爵、伯爵、公爵の称号を得ます。1426年には、ユゼス子爵の最後の跡取りであるシモーヌが、クリュソル男爵のジャック(1460-1525)と結婚し、ユゼスの8番目の子爵となります。

1565年に、ユゼス子爵は公爵に昇格、1572年には国王シャルル9世(1550-1574)によって封臣に格上げされます。ラングドック・プロヴァンス・ドフィネ地方の君主補佐官を務めていたユゼス子爵でありクリュソル男爵でもあるアントワーヌ(1528-1573)が、カトリックとプロテスタント間の和平を成功させ、公爵の称号とフランスの第一重臣の称号を受けたのです。アントワーヌには子どもがいなかったので、カトリックに改宗した元プロテスタント教徒の弟ジャック(1540-1568)が跡を継ぎました。今日まで公爵の称号を継承しているのは、このジャック・クリュソルの子孫たちなのです。

ユゼスのクリュソル家は、その後、国王に委ねられた高位の職務において名を馳せてゆきます。17世紀以降、貴族の序列において、国王の血縁である王子に次ぐ高い地位にある公爵は、宮廷への常駐を要請されるようになりました。中でも、王冠と笏を持つという栄誉を手にしたのがユゼス公でした。また国王が亡くなった際には、墓が閉じられる前に「国王崩御。国王ばんざい」という語を発する役目も仰せつかっていたのです。
18世紀には、8代目ユゼス公のシャルル=エマニュエル(1707-1802)が11年間宮廷を追放になり、自分の土地で幸せな人生を送ったこともありました。彼は、有名な作家で哲学者のヴォルテール(1694-1778)と哲学や当時の風習、社会生活などについて熱心に文通を交わしていました。
革命期に城は国家財産として売られ、略奪され、中学校として改装されます。その後1824年にユゼス公がシャトーを買い取り、大規模な修繕工事に着手するのですが、20世紀には、ルイ=エマニュエル(1871-1943)が不運に見舞われ、城は教育省に貸し出されてしまいます。そして1954年、現在の公爵の父親であるクリュソル侯爵ルイ=フレデリックが再び買い取ったのです。
彼の祖母、クリュソル侯爵夫人マリー=ルイーズ・ベジエ(1904-1991)は、司教館がなくなり、絹産業も衰退したことによって輝きを失っていたユゼスの町のために尽力し、景観保護の法律を利用できるように城を一般公開しました。2001年より17代目のユゼス公の地位にあるジャックと、その妻アレッサンドラもその意思を継ぎ、素晴らしいルネサンス様式のファサードをはじめ、大規模な保存・改修工事をおこない、城の美術コレクションも充実させています。

Update : 2016.6.1

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