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ポン=タヴァン美術館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。バックナンバーを読む
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続く空間は1888年から1894年まで続いたポン=タヴァン派の創始者たちのものです。ゴーギャンの弟子の中では、ポール・セリュジエ(1864-1927)が、師の示した原則にのっとって、《護符(タリスマン)》の別名で知られる風景画《アムールの森の授業》(オルセー美術館所蔵)を描きました。これは彼らが発展させようと願った美学のマニフェストであり、ナビ派に大きな影響を与えました。セリュジエは、彼の師ゴーギャンとナビ派との架け橋となります。ブルトン人の夫婦の生活を描いた《ポン=タヴァンの室内風景》(1988年)のように、もともとは写実的な画風で描いていたセリュジエですが、1889年の《子豚たち》でがらりと描き方を変え、とても大胆になります。子豚たちは黄色く、石壁は青く、階段を上る農婦は頭が切れた構図になっています……。エミール・ベルナールは、1888年作の《黒麦のための習作》で、「クロアゾニズム」の技法を発明します。フォルムは極限まで切り詰められ、色は非現実的になる。たとえばこの作品では藁靴の色が赤くなっています。1888年頃の《ポプラのあるポン=タヴァン風景》では、フォルムを単純化し、原色を使ってイマジネーションのままに自然を再構成しています。

続く空間はポン=タヴァン派の芸術家たちの探し求めた精神性を明らかにしてくれます。伝説と信仰の地ブルターニュが彼らにインスピレーションを与えました。たとえば、人々の信仰の篤さを表すモーリス・ドニ(1870-1943)の《ロクテュディの聖ヨハネの火》(1894-1895年)のように。

そして続く空間では、セクションがまるまるひとつ、ポン=タヴァン派の名を輝かせる、ゴーギャンを取り巻いた若い画家たちに割かれています。メイヤー・ド・ハーン(1852-1895)は師の教えを《青い木のある風景》に応用し、そのくねくねと曲がった幹は黒く縁取られています。シャルル・フィリジェはその《岩景》で、極度に単純化したプランを重ねます。画家であり家具職人でもあったエルネスト・ポンティエ・ド・シャマイヤール(1862-1931)は、この部屋を訪問する人が見ることになる、花や果物や女性の彫られた多彩色の木製の素晴らしいサイドボードを作りました。

それに続くのは、ジャポニズムとそのナビ派への影響が分かる空間です。ナビ派は浮世絵に見られる単純化されたパースペクティヴや非対称の構成、激しい色のベタ塗りに感嘆しました。北斎(1760-1849)の《こうつけ佐野の舟橋》はその完璧な例で、ジョルジュ・ラコンブがそこから想を受けて1890年から1897年ごろに、《カマレの洞窟》を描いています。この流れは戦後まで続き、抽象画へと至ります。主な例はジャン・デイロル(1911-1967)の《オイディウス、作品850》(1966年)です。

どこを見ても絵のように美しいブルターニュの港を見るだけでなく、ポン=タヴァン美術館をぜひとも訪問なさってください。ポン=タヴァン派は印象派とフォーヴィスムという絵画の歴史のふたつの重要な時代の転換期に登場しました。その革新的な思想は、この地で形となった総合主義とともに、大胆で創造的な芸術として確立され、象徴主義を超えて、抽象画への道を開いたのでした。

友情を込めて。

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Update : 2016.10.1

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