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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

パリ、そしてサン=ジェルマン=アン=レーのほど近くに位置する閑静な住宅地メゾン=ラフィット。ここは、よく知られた競馬場があることから、「馬のまち」とも呼ばれています。今日は皆さまを、この町の中心に佇むメゾン城へとご案内いたしましょう。
メゾン城は、17世紀の創建当時、もっとも美しい邸宅として名を馳せ、同時代の人々の称賛を集めたシャトーです。19世紀に庭園と建物のかなりの部分がなくなってしまいましたが、今日でもなお、古典様式の建物や古典様式・新古典様式の彫刻作品群は一見に値します。なによりも素晴らしいのは、この城がふたつの眺望――歴代のフランス国王たちが狩りに出かけたサン=ジェルマン=アン=レーの森の眺望、そしてセーヌ河やその先にあるパリの眺望――の中心にあることです。はるか遠方にデファンス地区のタワーを望むその光景は、まさに絶景といえましょう。

17世紀におけるもっとも名高い建築物のひとつとなったこの城の建設は1642年にはじまり、1651年に落成しました。城の主は、パリ高等法院の議長で、1650年から翌年にかけて財務総監を務めたルネ・ド・ロングイユ(1596-1677)。彼は、家族から受け継いだこの土地に城を建設することにし、フランソワ・マンサール(1598-1666)に依頼したのです。フランソワ・マンサールは、今日では狩猟自然美術館となっているゲネゴー館(1652年)、カルナヴァレ館(1661年)といったパリの邸宅を手掛けたことで知られる建築家で、ヴェルサイユ宮殿の設計を手掛けたジュール・アルドゥアン=マンサール(1646-1708)の大叔父でもあります。ジュールは、大叔父とともにメゾン城の建築に携わることで建築家としての第一歩を踏み出したのです。

メゾン城は、狩猟から戻った国王ルイ14世(1638-1715)を迎えるにふさわしい建物でなければならず、城の玄関も森側につくられているほど。1651年4月18日、当時12歳だった国王がこの城に立ち寄り、その2日後にも王は母親で摂政のアンヌ・ドートリッシュ(1601-1666)を伴ってこの城を訪れ、城の落成を記念する壮麗な祝祭に出席しました。ルネ・ド・ロングイユはその後、ゆえあって国外追放となりますが、1656年に王の恩赦を受け、1658年侯爵領に高められた自らの土地に戻ってきます。1662年8月22日には、ルイ14世とその妻マリー=テレーズ・ドートリッシュ(1638-1683)が領地を訪れています。しかし、国王がここに宿泊したのは1671年7月11日のただの一度限りでした。そして、ルネ・ド・ロングイユが亡くなると、大厩舎の建設を最後に工事は終わりました。子孫のひとりジャン=ルネ・ド・ロングイユ(1700-1731)は、ここに科学者、作家、哲学者を招き、その中にはかの有名なヴォルテール(1694-1778)もいたそうです。

その後、この城は火事に見舞われ、ひどい状態のまま売りに出されることになります。それは、ルイ15世(1710-1774)が、彼の愛人たち(1747年にポンパドゥール侯爵夫人、1770年にデュ・バリー伯爵夫人)のためにこの城を購入するのをためらったほどといいます。そして1777年、ルイ16世の弟で、後のシャルル10世であるアルトワ伯(1757-1836)が、この領地を手に入れます。アルトワ伯は建築家フランソワ=ジョゼフ・ベランジェ(1744-1818)に、階段右手の1階の居室を改装させ、多くの宮廷人を招いての壮麗な祝祭の数々を催す一方で、セーヌ河沿いに競馬場をつくり、馬の訓練を行いました。しかし、1789年、大革命が勃発。アルトワ伯は亡命し、城は工事の終わらぬままに、国家財産として没収され、家具は売り払われました。その後1804年、城はナポレオン1世(1769-1821)の仲間であるランヌ元帥(1769-1809)の所有となりました。ナポレオンは、ランヌ元帥が亡くなった際に、その妻モンテベッロ公爵夫人を見舞ってこの城を訪れています。そして、セーヌ河のサルトルーヴィルとメゾンの間に最初の橋を架けたのもナポレオンでした。

Update : 2017.10.1

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