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イエールのカイユボット邸マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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しかし、1878年にカイユボット夫人が亡くなると、邸宅は売りに出され、人の手から手へと移ってゆきます。そして1973年には市が購入し、美術館へと生まれ変わることとなったのです。1995年からは、王政復古期(1814-1830年)の保養地の邸宅のあり方を尊重しつつ、素晴らしい改修がなされました。また、改修によって、美術館の来館者は、ギュスターヴ・カイユボットとその家族─アルフレッド(1834-1896)、ギュスターヴ、ルネ(1851-1876)、マルティアル(1853-1910)の4人兄弟でした─の生活が分かるようになりました。

ギュスターヴは2度伴侶に先立たれた父の3度目の結婚で生を受けた子でした。父がイエールに邸宅を買った時は寄宿学校に在籍していたため、初めてここに来たのは12歳の時のことでした。ギュスターヴはその後、バカロレア(大学入学資格)を取得し、1869年パリで法学の学位を取ります。1870年の普仏戦争では国民衛兵に動員され、パリの防衛に参加しています。

カイユボットは1871年、レオン・ボナ(1833-1922)のアトリエに入ってアカデミックな美術教育を受けています。その後、1873年にはエコール・デ・ボザールの入学試験に合格しますが、学校には1年しか留まりませんでした。1872年、友人ジュゼッペ・デ・ニッティス(1846-1884)を訪ねて父とともにイタリアへ赴いていますが、この時、デ・ニッティスを介してカイユボットはドガ(1834-1917)と知り合ったのです。パリに戻ると、近代的な主題やパリの景観、家族の邸宅のある周辺地域の風景を描くようになります。光の効果を表現しながら、カイユボットの使う色彩は少しずつ明るくなっていきました。1870年から1876年、カイユボットは田舎でのレジャーの様子や、イエール川でのボート乗りといったテーマを発展させていき、この頃、《イエール川のカヌー遊び》(1877年)や《イエール川のカヌー》(1877年)といった作品が描かれました。
1874年に父親が亡くなると、莫大な財産を相続し、生活の心配をせずに自らが情熱を傾けるものへ没頭できるようになりました。そのひとつが絵画でした。カイユボットは、ルノワールやドガ、モネ、ピサロといった友人の画家たちの支援者となり、彼らの作品を高値で買い取りました。また1874年には、第1回印象派展の主催にも参加します。今日、彼の作品の中で最も有名なもののひとつ《床を削る人々》(1875年)は当時のサロンに落選していますが、ルノワールの誘いで彼らの仲間に加わることになったのです。以降もカイユボットは印象派展に定期的に作品を出品し、《ヨーロッパ橋》(1876年)、《パリの通り、雨》(1877年)など、同時代の都市風景を描いた作品によって注目を集めました。

1876年からは、仲間の作品を本格的にコレクションし始めます。例えばルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年)、モネの《サン=ラザール駅》(1877)、ドガの《バレエ》(1876-1877年)といった今日よく知られた作品には、かつてカイユボットが購入したものが少なくありません。本格的コレクションを始めたこの年、弟ルネの突然の死をきっかけに、カイユボットも遺言を書いています。母が亡くなり、イエールの別荘を売ると、ギュスターヴと弟マルティアルはオスマン通りに暮らしますが、1882年にはセーヌ河のほとりのパリ・ヨットクラブの近くプティ=ジュヌヴィリエに別荘を購入。1886年、ここに完全に居を移しました。この年は、ニューヨークで最初の印象派展が開催された年でもあり、カイユボットは10点を出品しています。また、ヨットに熱中し船の設計図を描き始めたのもこの頃のこと。カイユボットは数々のヨットレースで優勝するという素晴らしい腕前の持ち主でもあったのです。園芸にも関心があり、その情熱をモネと分かち合い、多くの書簡をやり取りしました。そして、1894年にカイユボットが亡くなると、印象派絵画67点からなる全ての絵画コレクションの国家への遺贈が提示されますが、残念なことにそのうちの40点しか受け入れられませんでした。これらの絵画は現在、オルセー美術館のコレクションの核となっています。

現在、邸宅へはキッチンから入ります。職人が再現したデルフト焼の青いタイル(18世紀)の壁の前に置かれた巨大な鋳鉄のガスレンジと銅製の厨房セットがあり、かつてこの館が名高いシェフのものであったことを思い起こさせます。

玄関に一歩足を踏み入れたとたん、そこにはカイユボットが暮らした在りし日の雰囲気が広がっています。来館者を出迎えるのは、ジュール・ボワリー(1796-1874)のパステル画に描かれた両親と3人の子たちからなるカイユボット家の人々です。ギュスターヴがこの家の中で描いたいくつかの絵画や、家を売却した際に公証人が書き残した財産リストによって、各部屋は当時に忠実に改装されています。19世紀、賓客を迎えるための食堂は重要な場所であったため、洗練された家具が置かれています。シャルル10世様式のローズウッド製のテーブル、椅子、コンソールテーブルのセットが調和し、クレイユ地方の繊細な磁器の食器セットが8人分、美しくテーブルセッティングされています。食堂でとりわけ印象的なのは、壁一面に描かれた装飾画。フランス式庭園を描いたピエール=アントワーヌ・モンジャン(1761-1827)のデッサンに基づくもので、かつてここにあったコローとバルボが描いた8つのイタリア風景画を思わせる素晴らしい作品です。

サロンは女性のための空間であったようです。マホガニーとレモンの木でできた裁縫台(1830年頃)や磁器のティーセット(帝政期)が載せられた丸テーブルがあります。緑色のダマスク織の布が張られたソファと、長椅子(1820年頃)、肘掛け椅子(1840年頃)は、座り心地がよく、おしゃべりにぴったり。壁には黄色い布が張られて、壁紙には神話の情景が描かれていますので、よくご覧になってみてください。

Update : 2019.2.8

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