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王妃の村里マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。バックナンバーを読む
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2階へはとても暗い小さな続き部屋を通って行きますが、ここが大きな窓のある応接間(ピアノ・ノビーレ)となっています。やはりジャコブ=デマルテ製の6脚の椅子がありますが、椅子に張られた黄色い布は当時のもので、クリーニングしただけで美しさを取り戻しました。次の間、黄色いサロンは素晴らしい装飾がまばゆいほど。壁の上部はルイ16世時代の装飾、黄色い絹張りの壁は、円形の飾り模様と古代風の人物像で装飾されていますが、これは帝政期のモデルにしたがって織られたものです。幾何学的なかたちの洗練された家具類に、ソファ1台、肘掛け椅子8脚がありますが、白く塗装された木に棕櫚の葉と花模様の金の装飾が施され、黄色い絹のビロードが張られています。洗練された装飾を細部までよくご覧ください、とりわけ家具につけられた網目状の金の装飾には目を見張ります。

次の帝政期の趣味で整えられた休憩室は、とてもシンプル。緑の布を張ったマホガニー製の長椅子が置かれています。花が生けられた白と青の陶器の壺で飾られた廊下からは、片側には湖の眺めが、反対側には菜園が見えます。この廊下はビリヤードの館へと続いていますが、内部はもろく、狭すぎるので入ることはできません。窓から眺めると、洗練された小さな白いサロンがあります。この素晴らしい私的な部屋には、当時の家具がすべて残されており、ヒルガオ柄のダマスカス織で覆われた肘掛け椅子が、壁布の色と調和しています。また、この部屋にはレモンの木製のトリックトラック用テーブルと、アマランサスの木製のコンソールテーブルがあります。寝室になっているブドワールは、ここよりもさらに小さな部屋で、ベッドといくつかの家具(レモンの木製の小物置き用のテーブル、クルミの木製の箪笥)、優美なオブジェ(金箔が施されたブロンズ製の燭台2点)が置かれています。ベッドは、緑がかった水色の壁紙に合わせた色の布で覆われています。再び階下に行くと、ビリヤードの間に出ます。ビリヤードは当時は男性だけが嗜むことのできるゲームでした。壁の緑色はオリジナルの色です。ビリヤード台は1776年のモデルに基づいて復元されました。マホガニー製の肘掛け椅子は座高が高く、踏み台がついています。

王妃の館の裏手には、レショフォワールと呼ばれる建物があります。ここには王妃の館を機能させるための業務に関わるさまざまな小さい部屋があります。そのうちのひとつは調理場で、大きな暖炉は、分銅を使ったシステムで焼き串を回転させて家禽類をローストできるようになっています。またパンを焼く竃と、コンロ、貯水タンクがあります。その隣には銀製品と食器用サイドボード……。ここで、食堂で供する食事が作られていたのです。

お次は外に出て、乳製品試食所を通って行くことにいたしましょう。乳製品加工所の方は壊されてしまいました。ここで王妃はさまざまな乳製品(チーズ、バター、フレッシュクリーム、アイスクリームなど)を食しました。部屋の周りには白大理石のコンソールテーブルが設置され、中央にはマリー=ルイーズのために作られた大きな大理石のテーブルがあります。

村里でのマリー=アントワネットの暮らしは、宮廷における彼女への批判や反感を増大させる材料となりました。農民の真似事をして国庫のお金を浪費し、気ままに暮らしていると非難されたのです。さらに祝祭ともなれば、マリー=アントワネットは廷臣たちを差し置いて、親しい友人たちだけをここに招待したために、嫉妬を招くことになりました。国民は何が起こっているのかを知らないままに悪い評判ばかりが立ち、この場所は不評の的となっていました。

フランス革命の起こった1789年の10月5日午後、ルイ16世は王妃にパリ行きを告げます。マリー=アントワネットの優雅な田園暮らしは突如終わりを告げ、彼女は二度と村里に戻ることはありませんでした。その後、訴訟の際には、この村里は革命派の人々によって、王妃の娯楽と放蕩の舞台とみなされました。マリー=アントワネットは、その悲劇的な運命、そして彼女が民衆の間に掻き立てた憎悪によって、フランス史に深い痕跡を刻みました。彼女を題材にした映画やTV番組、小説、展覧会などは枚挙にいとまがありません。マリー=アントワネットは、歴史上のすべての王妃の中でもっとも嫌われた王妃であると同時に、おそらくもっとも褒めそやされ、もっとも人々の関心をひく王妃なのだと言えましょう。

友情を込めて。

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Update : 2019.8.1

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