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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

本日は皆さまを、カルティエ・ラタンの中心、パリで最も標高の高いサント=ジュヌヴィエーヴの丘に位置するパンテオンへとご案内いたしましょう。パリのあちこちから見える、この新古典主義様式の壮麗な建造物は、パリを象徴する建物のひとつ。もともとは教会でした。異国人の侵略を防いだパリの守護聖人である聖ジュヌヴィエーヴ(419-512)のために建てられた聖堂が、宗教を問わず、祖国に貢献した偉人を祀るための霊廟となったのです。

中世には、この場所には最初のカトリック王クロヴィス(466-511)が、その妻と娘たちとともに葬られるための場所として建造させた教会がありました。聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物箱がここに納められたのも、クロヴィスの遺志でした。

そして18世紀、国王ルイ15 世(1710-1774)が重い病に倒れた際、回復を祈ってここに大聖堂の建立を約束。1755年、この野心的な計画を建築家ジャック=ジェルマン・スーフロー(1713-1780)に託します。スーフローは古代、ゴシック、ルネサンスとさまざまな時代の芸術から着想を得て、ローマのサン・ピエトロ大聖堂や、ロンドンのセント・ポール大聖堂に比肩するような斬新な建物を設計します。

建設に鉄を用いたことも、この建築の斬新さの表れでした。建造物の構造を金属の骨組みで補強しているのですが、彼の計画は批判の的となり、とりわけ丸屋根の安全性が疑問視されました。それでも、聖堂は1764年に着工。スーフローの死後は、その協力者である建築家ジャン・ロンドレ(1743-1829)が工事を引き継ぎました。そして迎えたフランス革命。丸屋根の建造は終了していたものの、教会としての聖別を受けていないという状態でした。1791年、憲法制定議会は、教会を国の偉人に捧げる霊廟に変えることを決めます。フランス革命の偉人ミラボー(1749-1791)の葬儀は、1791年4月、パンテオンで行われ、啓蒙の世紀を代表する哲学者ヴォルテール(1694-1778)の遺骨も1791年7月に移送されました。

パンテオンはフランス史の有為転変のままに、数々の変化を遂げてきました。1805年、ナポレオン1世の治政下では、パンテオンはふたつの役割を与えられました。身廊はカトリック信仰の場に、地下納骨堂は国家功労者の栄誉を讃える場となりました。ブルボン王朝(ルイ18世とシャルル10世)の治政下ではカトリックの信仰の場に、ルイ=フィリップの時代には無宗教の霊廟にと19世紀を通じてパンテオンの役割は何度も変更されたのです。1851年、ナポレオン3世は、カトリック党のスポークスマン、シャルル・ド・モンタランベール(編注:モンタランベール伯爵の祖先に当たる人物)に支持され、パンテオンをカトリックの信仰の場にしました。そして1885年、熱心な共和主義者だった作家のヴィクトル・ユゴーの国葬以来、パンテオンは再びフランス史を代表する偉人を祀る国家の霊廟となったのです。

この堂々とした建造物に見合うように、スーフローは広大な広場もデザインしました。広場には1771年から1783年に作られた法律学校(現在のパリ大学法学部)と、19世紀に作られた神学校があります。神学校の建物は今日では、パリ5区の区役所になっています。パンテオンの巨大な建物(長さ110m、幅82m、高さ83m)は、ギリシャ十字の形に作られています。コリント式の列柱回廊のあるファサードは、ローマのパンテオン(紀元1世紀)から着想を得たもの。三角形のペディメント(破風)は4度作り変えられ、下部には「祖国が感謝を捧げる偉人へ」という碑文(1791年)が刻まれています。彫刻はダヴィッド・ダンジェ(1788-1856)による《褒賞を授与する祖国》(1837年)で、左側にはヴォルテールとルソーが描かれています。小頂塔(明かり取りの小窓のついた小さな塔)と十字架を頂いた高さ67mの丸屋根は、石を重ねた三層の丸天井から成っています。

Update : 2020.2.3

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