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コンピエーニュ城美術館
Paris, le 2 septembre 2008

▲コンピエーニュ城美術館の外観。
©M.Poirier
親愛なる日本のみなさまへ

パリから北へ向うこと80km、街を取り囲む深い森を抜け、わたくしはコンピエーニュへの旅に出ました。お目当ては、「ナポレオン3世とヴィクトリア女王、1855年パリ万博」。この街の美術館で開催中の特別展です。コンピエーニュは列車でも車でも交通の便がよく、地方の小都市らしい静けさのなかに、歴史の重みを感じさせる街。古代ローマ以来の歴史を誇り、5世紀にはすでに王家の館があったといいます。そして1370年頃、シャルル5世(1338-1380)がここに宮殿を建てさせ、これが今も残る宮殿の始まりとなりました。


▲広大な敷地に建つコンピエーニュ城。
©M.Poirier

歴代のフランス国王は、ランスでの戴冠式からの帰路にこの街に立ち寄り、狩猟を楽しみました。ことに狩猟を愛好したルイ14世(1638-1715)もまた、その例に漏れることなく、訪問回数は75回にものぼったといわれています。

1751年以降は、この地に魅せられたルイ15世(1710-1774)の宮殿が置かれ、オーストリア皇女、マリー=アントワネット(1755-1793)と未来の国王ルイ16世(1754-1793)との初めての対面の場ともなりました。ルイ15世は建築家のアンジュ=ジャック・ガブリエル(1698-1782)に命じて、それまであった城館を今日私たちが知っている新古典主義の傑作へと改築させました。ガブリエルはパリにあるコンコルド広場の設計も手がけた人物です。1751年から1789年のあいだに建てられた宮殿は、フランス古典主義の伝統を受け継ぎ、純粋で厳格な優美さを備えた力強い建築となりました。ガブリエルは、古典主義から新古典主義へと移行する役割を果たしたペリスタイル(柱廊)を採用し、お城を街に開くという斬新な設計を実現させたのです。

そして革命時、城にあった調度品はすべて競売にかけられてしまいました。城の大規模な改築が始められるには、ナポレオン1世(1769-1821)の登場を待たなければなりません。ここを宮殿とすることに決めたナポレオン1世は、建築家のルイ=マルティン・ベルトー(1771-1823)に改装を命じ、当代一流の芸術家を起用して豪勢に家具を刷新。1810年3月27日、この場所に未来の妻で皇妃となるオーストリア皇女マリー=ルイーズ・ドートリッシュ(1791-1847)を迎え入れたのです。

第二帝政期(1852-1870)は、コンピエーニュ城にとって、とりわけ特別な時代となりました。この宮殿をことに愛したナポレオン3世(1826-1920)は、皇妃ウージェニーとともにかの有名な「セリエ(舞踏会)」をこの館で催しました。1856年以降、毎年秋になると、皇帝夫妻は、各国の王族や外交官、文人、芸術家などからなる、もっとも華々しい招待客を100名ほど集めました。彼らは王宮に1週間ほど滞在し、狩猟や小旅行、ゲーム、コンサート、演劇とさまざまに愉しみました。皇妃自らも乗馬に興じるなど、コンピエーニュでの暮らしはパリでの宮廷生活に比べ、ずっとくだけたものだったのです。当時はおよそ900人もの人々がこの宮殿に住んでいたといいます。


▲かつて客人たちを迎え入れた中庭。
©A.de Montalembert

この宮殿が改築され、美術館へと生まれ変わったのは、第二帝政崩壊(1870年)後の1874年のこと。1926年からは厨房に通じる建物の一部に、乗りもの博物館が置かれるようになりました。牛馬を車や農具につなぐ 繋駕 ( けいが ) から自動車の登場にいたるまで、陸上輸送の歴史を辿ることのできる博物館です。


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