マリー=アントワネットの画家 ヴィジェ・ルブラン

▲本展の担当学芸員、安井裕雄氏

ヴィジェ・ルブランは、1834年79歳の時に、姪の助けを借りながら自らの人生を振り返った『回想録』を出版しました。その中でヴィジェは、フランス革命期に離婚した画商の夫、ジャン=バチスト・ピエール・ルブラン(Jean-Baptiste Pierre Le Brun)のことを、「浪費癖のある遊び人」と散々な“悪い男”として記しています。しかし、その実像はどうだったのでしょうか――? 本展のカタログでルブラン夫妻のことにも言及している担当学芸員安井裕雄氏に、ふたりの実像とルブラン(夫)がヴィジェ(妻)に及ぼした影響についてうかがいました。

美貌の若き女性画家と有力画商の結婚

MMF:まずヴィジェとルブランが結婚に至った馴れ初めをうかがえますか?

安井裕雄氏(以下、安井氏):ヴィジェとルブランの出会いは、1775年以降のことです。ヴィジェと彼は隣人同士として知り合いました。画商を生業にしていたルブランの豪華なアパルトマンには、名画が溢れていました。画家修業中の20歳になったばかりのヴィジェ嬢は、ルブランのアパルトマンで多くの名画を間近に見るという、またとないチャンスを得ることができたのです。そしてルブランもまた、この才能溢れる美しい女性に惹かれていったのでしょう。ふたりは1776年、結婚します。ヴィジェ20歳の時のことです。

MMF:画家を目指すヴィジェにとって、画商の夫というのはとても頼もしい存在ですよね。しかも間近で巨匠たちの真筆に触れられたなんて、すごいアドバンテージだと思います。

▲エリザベト・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン≪ポリニャック侯爵夫人、ガブリエル・ヨランド・クロード・マルティヌ・ド・ポラストロン≫(1782年)ヴェルサイユ宮殿美術館蔵。この作品は、ルブランとともにベルギーを旅した際に見たルーベンスの作品からインスピレーションを受けて制作されたといわれる
©RMN(Château de Versailles)/Gérard Blot/distributed by AMF

安井氏:ええ、その通りです。しかし残念ながら、この時代、ルブランのもとでヴィジェがどんな作品を見ていたのかを具体的に知る資料は残されていません。ですが、ルブランが細かく記録していた競売目録を調べてみると、彼がムリーリョ(Bartolomé Esteban Murillo)の≪乞食の少年≫(ルーヴル美術館)、フラゴナール(Jean-Honoré Fragonard)の≪かんぬき≫(ルーヴル美術館)、ホルバイン(Hans Holbein)の≪大使たち≫(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)といった、現在、世界的な美術館の代表的なコレクションとなっている作品を扱っていたことが分かりました。このことは、ルブランの高い鑑識眼を表すと同時に、ヴィジェが画家として、かなり恵まれた環境にいたということを物語っています。

画商ルブランの“とんでもない”目とは

▲左は1787年に描かれた≪プゼ侯爵夫人とルージェ侯爵夫人とふたりの息子のアレクシとアドリアン≫。ヴィジェはふたりの寡婦とふたりの少年をイタリア・ルネサンスの聖家族のような構図で描いた。夫が所有したコレクションや版画から得たインスピレーションの賜物だろうか

MMF:なぜ、ヴィジェが実際にどんな作品を目にしていたか分かっていないのでしょうか?

安井氏:『回想録』での言及が少ないこと、そして当時のアカデミーの入会資格の問題があると思います。実は身内に画商など、絵画の売買に携わっている人間がいる場合、アカデミーに入会することができませんでした。でも、ヴィジェのバックにはマリー=アントワネットという最強の“パトロン”がいた。実際、ヴィジェがアカデミー入会を果たした陰には、王妃の推薦がありました。加えて画商として既に有名だったルブランの妻という立場は妬みの対象になりかねません。もしかしたら、そうした“やっかみ”を避けるため、ふたりは周到に情報を隠したのかもしれませんね。これはもう、推測の域でしかありませんが……。

MMF:ルブランの画商としての能力はどうだったのですか?

安井氏:ルブランが“とんでもない”画商であったことは確かです。とんでもないというのは、もちろん「偉大な」ということですよ。彼は聖ルカ・アカデミーに登録した画家として出発しましたが、画家であり画商でもあった父の死後、その稼業を受け継ぎました。競売にかけられる出品作品に、作者名、サイズ、技法、そして作品に対する詳細なコメントを加えて目録を作成しました。この作業は、まるで私たち現代の学芸員の仕事と通じるようで、非常に親近感を覚えますね。また彼は忘れ去られていた画家フェルメール(Johannes Vermeer)の名前をフランスにおいて初めて印刷物に記した人物でもあるんですよ。誤解がないように付け加えると、フェルメールの作品を最初にフランスに紹介したのは、ルブランのライバルであった画商のパイエ(Alexandre Joseph Paillet)でした。しかしパイエが輸入した≪天文学者≫(ルーヴル美術館)と≪地理学者≫(シュテーデル美術館)は、短期間でフランスを去ってしまいます。でも、ルブランの目はこの名画を見逃しませんでした。1792年に自ら執筆した詳細な画集『画廊』で、≪天文学者≫について言及しているのです。これはフランスで“フェルメール・フィーバー”が起こる50年以上も前のことです。彼の恐るべき審美眼にはほんとうに驚かされます。

ルブランはほんとうに“ひどい男”だったのか?

MMF:お話を聞いていると、ルブランはヴィジェが『回想録』に記したような“ひどい男”とは思えませんが……。

安井氏:まぁ、夫婦のことは、他人の想像が及ばないものですから、なんとも言えませんが、ルブランがヴィジェをひとりの画家として高く評価し、その画業を全面的にサポートしていたことは事実だと思いますよ。ヴィジェは1789年、フランス革命の年の10月にパリを脱出し亡命します。マリー=アントワネットお抱えの画家であったヴィジェの身にも危険が迫っていたからです。その後、ヴィジェはイタリアでも成功を収めたものの、1792年にはフランスの不法亡命者リストに登録されてしまいます。ヴィジェとパリにひとり残ったルブランが正式に離婚したのは1794年のことですが、一説には離婚をすることで、ヴィジェの財産を政府による没収から守ったともいわれています。また、不法亡命者リストからヴィジェの名を外すよう各方面に働き掛けたり、妻を擁護する冊子を出版したりもしています。現在のように流通が発達していなかった時代にあって、ヴィジェが見知らぬ土地でパリに残してきた自らの作品を売ることができたのは、ルブランの協力なしには考えられないことです。でも、きっと『回想録』を執筆していた晩年のヴィジェは、夫の助けなどを借りず、絵筆1本で生きてきた女性画家としての矜持をアピールしたかったんじゃないでしょうか。亡命中は激動の時代をくぐり抜け、今でいう“シングル・マザー”として、ひとり娘のジュリーを育て上げたんですから。けれども僕は信じています。ルブランにとってヴィジェは“恋女房”だったんだと。でなければフランス革命前に10年以上も、結婚生活が続くはずがありませんからね(笑)。

Update : 2011.4.1
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マリー=アントワネットの画家 ヴィジェ・ルブラン ―華麗なる宮廷を描いた女性画家たち―展

  • 会期
    2011年3月1日(火)〜5月8日(日)
  • 会場
    三菱一号館美術館
  • URL
    http://mimt.jp/
  • 開館時間
    水曜・木曜・金曜:10:00-20:00
    火曜・土曜・日曜・祝日:
    10:00〜18:00
    *入館は閉館の30分前まで
  • 休館日
    月曜日
    *ただし祝日の場合は翌火曜日休館。
    5月2日(月)は開館
  • 入館料
    一般:1,500円
    高校・大学生:1,000円
    小・中学生:500円
 

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