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マントノン城マダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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モンテスパン夫人と友情で結ばれたフランソワーズは、1670年、秘密裏に王の庶子の養育係となります(国王とモンテスパン夫人は8人の子をなします)。自らの子のいないフランソワーズは、彼らの教育に専念し、すべての愛情を注ぎました。子どもたちに献身的に尽くしたフランソワーズでしたが、とりわけ長男メーヌ公(1670-1736)への深い愛情、そして第1子が亡くなったときの彼女の悲しみを見て、国王は心を動かされることになります。 1673年、子どもたちが国王に認知されると、フランソワーズは子どもたちに付き従って宮廷に入りました。しばしば子どもたちのもとを訪れた国王は、養育係としてのフランソワーズの仕事ぶりを高く評価し、彼女の尽力に対し多額の報酬を与えました。これによって彼女はマントノン領主としての権利を手にすることができたのです。フランソワーズは1年後、領地より名前を取ってマントノン夫人と呼ばれることになります。

貴族であるモンテスパン夫人が輝くような魅力で国王を魅惑したのに対し、マントノン夫人はきめ細やかな気遣いと慎み深さによって、少しずつ存在感を強めていきました。そして、モンテスパン夫人は失寵することになるのです。1680年、フランソワーズは王太子妃の「着付け役」に任命されます。1683年、王妃マリー=テレーズ・ドートリッシュ(1638-1683)が44歳で亡くなると国王とフランソワーズは秘密裏に結婚し、その後31年をともに生きることになりました。非常に信心深かった彼女は宮廷に「慈悲と簡素の時代」をもたらしました。国王の没後は、貴族の貧しい女性たちの寮を創設し、そこに隠棲し、83歳で亡くなります。

その起源を中世に持つマントノン城は、8世紀にわたる歴史の中で、数多くの改築を経て、現在では、さまざまな時代の要素が混じり合い調和した建物となっています。13世紀から16世紀までの中世の城の名残は、砂岩の四角い塔に今なお見ることができます。主塔からのびていたという巡回路は現在では失われてしまいましたが、その痕跡は残されています。ルネサンス期には、マントノンの領主がレンガの塔を3つ建て、その間を建物でつなぎました。16世紀には、国王の財務・経理担当官ジャン・コットローが城主となり、城を拡大しました。ファサードには、小さなふたつの塔を持つ石造の小城塞があります。コットローは正面中庭に新しい母屋をつくりレンガ造りの建物と塔とつなぎ、ゴシック様式の聖ニコラ教会も再建しました。

マントノン夫人も改築を続けます。そのいくつかは、国王の建築家ジュール・アルドゥアン=マンサール(1646-1708)やジャン=ピエール・ル・メストル(1703-1746)が手掛けました。彼らは、国王が誰の目にも触れずに、また悪天候から守られてミサに行けるよう城と教会を結ぶ大回廊をつくりました。マントノン夫人は四角い塔と母屋の間に新しい建物を建築し、ここに自分の居室をつくりましたが、庭の眺望を確保するために壁を取り払わせたといいます。庭の整備を任されたルノートルは、完全に幾何学的な図面によって、刺繍のように刈り込まれた花壇や幅広いパースペクティヴを持つ庭園を設計しました。もちろん、フランス式庭園における主要な構成要素である水路もきちんと取り入れ、水道橋の下をくぐる、両側に散歩道のある大水路をつくりました。水理学者ヴォーバン(1633-1707)のアイデアで、水路はユール川の水を80kmにわたってヴェルサイユ宮殿まで運ぶはずでしたが、この野心的なプロジェクトが完成することはありませんでした。

Update : 2015.10.1

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