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フェルネ=ヴォルテール館マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
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Chers amis,親愛なる日本の皆さまへ

スイスのジュネーヴを訪ねることがありましたら、スイスとフランスの国境からほど近くに位置する美しい町、フェルネ=ヴォルテール(アン県)へ足を延ばされることをおすすめします。この町には、18世紀「啓蒙の世紀」が誇る偉大な哲学者のひとり、ヴォルテール(1694-1778)──本名フランソワ=マリー・アルエ──が人生の中でももっとも実りの多い晩年の20年を過ごした館があるのですから。文学作品の執筆から政治的な闘争まで、猛烈な意欲を持って取り組んだヴォルテールは、彼の生きた時代はもちろん、続く時代にも極めて大きな足跡を残し、その影響は計り知れません。

本日、皆さまをご案内するフェルネ=ヴォルテール館とは、まさに、ヴォルテールが社会における不公正、そして政治的・宗教的不寛容を告発した場所。ヴォルテールは、ここでヨーロッパ全域からの数多くの信奉者を迎え、彼が居を構えたことで「啓蒙の世紀」の中心地となったフェルネの経済発展にも力を尽くしたのでした。

館は1958年に歴史的建造物の指定を受け、1999年には国家の買い上げとなりました。その後、国有建造物保護局(CMN)によって改装され、2018年5月31日、共和国大統領エマニュエル・マクロン立ち会いのもと、再びその扉を一般に開くことになったのです。

ヴォルテールは公証人の息子として生を受けました。イエズス会の学校で優秀な成績を修め、17歳で卒業した後は文筆家になるつもりであったといいます。しかし、父の反対により法律を学び、パリの社交界にデビューしてからは、持ち前の機知と知性で、上流階級の人々との交流を楽しみました。しかし1715年、当時の摂政(フィリップ・ドルレアン/1674-1723)とその娘のベリー公妃(1695-1719)を皮肉った無礼な詩を著したことから、ヴォルテールの運命の歯車が廻りはじめます。その翌年、ヴォルテールはチュールに隠遁するものの、1717年にはバスチーユ牢獄に11ヵ月もの間、投獄されてしまうのです。そして、家族や過去との繋がりを断ち切るため、ペンネームを使うようになります。こうして1718年、獄中で執筆し、ヴォルテールの名で最初の戯曲『エディプ(オイディプス)』を発表し、大きな成功を収めます。さらに、1723年に出版した4,300の12音節詩句から成る叙事詩『ラ・アンリアード』が、フランスのみならずヨーロッパ全土で大成功を収めました。この叙事詩は、狂信を嫌う理想主義的な君主アンリ4世(1553-1610)によるパリ包囲を主題としています。その後、名門貴族のロアン家との口論がもとで再び投獄されますが、出獄後の1726年から1728年にかけて、ヴォルテールはロンドンに逃れ、自由な精神を発見します。

1734年に出版した『哲学書簡』もまたスキャンダルの火種となります。宗教や政治についての持論を展開したこの書籍は、フランスの政治体制への痛烈な批判の書であり、それがルイ15世の気に入るはずはありません。再びの投獄を避けるため、パリを離れることを余儀なくされたヴォルテールは、1734年から1749年までフランス東部にある愛人の家に身を潜めます。
ヴォルテールを匿った愛人エミリー・デュ・シャトレ(1706-1749)は、数学者で物理学者、正真正銘の女性科学者で、ヴォルテールに大きな影響を与えました。彼女のお陰でヴォルテールは科学に興味を持つようになり、1738年『ニュートン哲学の基礎』を著し、ニュートンの思想を一般に広めました。
1746年には、アカデミー・フランセーズのメンバーに選ばれます。1748年、最初の哲学小説『ザディーグ』を著しますが、ここにはフランスの習慣や法に対する隠された批判が込められていました。その後、シャトレ伯爵夫人の死に打ちのめされたヴォルテールは、プロイセン王フリードリヒII世(1712-1786)からの招聘に応じることを決めます。啓蒙君主フリードリヒII世は、ヴォルテールの信奉者のひとりだったのです。のちにふたりは仲違いをしてしまいますが、ふたりの文通はヴォルテールが亡くなるまで続くことになります。

1754年、パリでは相変わらず危険分子とされていたヴォルテールは、編集者のすすめで寛容の精神で知られていたジュネーヴへと赴き、ここに邸宅「悦楽の館」を購入します。この館を拠点に『カンディード』『楽天主義』を著し、奴隷制や戦争などを、カトリック教会が神の名の下に犯す罪として告発したのです。また、ディドロとダランベールの『百科全書』にも寄稿します。『百科全書』は思考と文筆の自由、三権分立を擁護し、絶対君主制を批判した事典で、ヴォルテールに触発されて「ジュネーヴ」の項目まで出版したところで出版禁止となり、ヴォルテールはジュネーヴを離れることを余儀なくされました。

Update : 2018.12.17

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