食器棚の隣には、一連の肖像があり、シャナがそのスタイルを変えながらも生涯にわたって肖像をつくり続けていたことを物語ります。その数220点。そして、それぞれの人物の個性を細やかな感性とユーモアを持って表すことに成功したのです。シャナはまず話しかけながらモデルのまわりを回って、数多くの小さなクロッキーを描き、それを終えてから初めて彫刻に取りかかったのです。ここには、眼鏡をかけた《クインジ博士》(1922年)の石膏像、その左には苦悩の眼差しをした《ユダヤ人画家》(1920年、ブロンズ)、丸い頭の画家《ジャン=エミール・ラブルール》(1921年、ブロンズ)が置かれていました。中央上にあるのは、このアトリエを手がけたオーギュスト・ペレの胸像(1923年、ブロンズ)。手入れされた口髭が印象的です。
ガラス窓から差し込む光に満ちたアトリエへと進みましょう。両側のギャラリーに肖像が置かれたこの空間で、わたくしは肖像たちの視線を感じずにはおられませんでした。右手の棚には石膏像《ヴィクトール・レイ》(1924年)があり、長い髭が際立っています。その隣には、とても繊細な顔立ちの魅力的な女性像《アナイス・ニン》(1934年)があります。作業台の中央には、有名な彫刻作品《帰還》(1945年)があります。シャナが17年もの間アトリエの奥に隠していたという痩せ細り疲れ果てた人物像、シャナの作風の変化を決定づける作品です。この作品で、シャナは表面に指の跡を残すために、それまでの滑らかな形態を捨て去ったのです。それが戦争の恐ろしさを表現する彼女なりの方法だったのです。戦争の恐怖というテーマはずっと彼女につきまとっていました。この作品の左側には、ふたりの人物が非常に接近してソファに座る《打ち明け話》(1966年)、右側には不気味な《くちばしの長い鳥》(1950年)が置かれています。
また、頬杖をついて物思いにふける女性像《思索》(1962年)をはじめ、細長く引き伸ばされた形態の優美な女性像がいくつも展示されています。その後ろには、イスラエルのためにつくった巨大な彫刻の数々、例えば畑で働く女性の像《落穂拾い》(1955年)があります。
2階のロフトには、手すりに沿って厳かな姿の2体《アオサギ》(1957年)と《歩く鳥》(1958年)が置かれています。その隣に置かれた画家《アレクサンドル・ヤコヴレフの肖像》(1921年、セメント)の刺すような深い眼差しには、思わずはっとさせられました。ヤコヴレフは、アンドレ・シトロエンが組織した自動車による長距離遠征「黄色い巡洋艦隊」と「黒い巡洋艦隊」に同行し、その様子を描いた画家です。正面には、美術批評家ガストン・ピカール(1892-1962)の真の人間性が滲み出るような胸像(1920年)があります。高慢で男性的な態度の作家ナタリー・クリフォール・ベルネ(1876-1972)の姿を刻んだ《女性騎手》(1915年)も存在感を放っていました。
髪をシニョンにまとめた可愛らしい少女の全身像《ナディーヌ》(1921年)とその隣の人形のように丸くてぽっちゃりした顔の《スージー》(1930年)、そして見事な髪の11歳の少女《イダ・シャガール》(1923年)は、シャナ・オルロフがどれほど頬の丸い子どもの肖像をつくるのが好きだったかを物語っています。奥のソファの隣には、がっしりした力強い男性像《パイプを吸う男ウィドフ》が置かれ、アトリエを監視しているように見えます。
およそ500点の彫刻(うち220点が肖像)と300点のデッサンからなるシャナ・オルロフの作品は、もっと広く知られてしかるべきでしょう。シャナ・オルロフは20世紀の具象彫刻の最も偉大な彫刻家のひとり。類いまれな才能を持つエネルギーに満ち溢れたこの芸術家を発見するのに、当時の雰囲気を保ったこのアトリエほどふさわしい場所はありません。とりわけ驚くべき事実は、このアトリエは、彼女がこの場所を去ってから、何ひとつ手を加えられていなかったようだということです。そのことがシャナのアトリエというこの空間を感動的で、魅惑的な場所にしているのです。
アトリエを出たら、すぐ近く、同じく14区にある「子供の権利広場」にもお立ち寄りください。この広場には、2018年11月、シャナへのオマージュとして彫刻作品《船乗りの私の息子》が設置されたのです。
友情を込めて。
Update : 2019.6.3
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