Français 日本語
カルナヴァレ美術館―パリの歴史美術館 第一弾:先史時代から革命まで
マダムの連載の一部(10館)は書籍でもお楽しみいただけます。 バックナンバーを読む
informations 3 2 1

美術館の入り口は、カルナヴァレ館の中庭を通り、かつての厩舎を通り抜けたところに位置します。最初の部屋は看板の展示室で、可愛らしい看板が並ぶ18世紀パリの街並みを彷彿とさせる素晴らしい空間です。右手には、鍵屋を示す二つの鍵がクロスした図案(18世紀)が、金で飾られたふたつの大きな錬鉄製の鍵で表されています。左手には、ライオンの体、馬の耳、頭にワシを持つ奇妙な動物グリフォンのモチーフ(18世紀)が描かれた木製看板がありますが、これはフォーブル・サン・アントワーヌ通り26番地にあった家具商の看板です。ふたつ目の展示室は、パリの歴史的な標示板の部屋。赤い本と白い羽ペンのついた書店の看板のようにさまざまな素材で彩られた19世紀の看板などが展示されています。窓の外にはアンリ4世の中庭が広がり、アンリ・ルメール(1798-1880)作のアンリ4世(1553-1610)のブロンズ騎馬像をご覧いただけます。

続いて1階の展示室へ。ここではイントロダクションとして、パリと美術館の歴史における重要な出来事が紹介されています。最初の展示室のテーマは、パリの発展です。セーヌ河を中心に市街が形成された町で、セーヌは町のシンボルである船と「Fluctuat nec mergitur(波に打たれても沈まない)」の標語の由来となっています。そして、ジョバンニ・マリア・タンブリーニ(1575-?)が描いた《パリ市街図》(1632-1641年)に見られるように、何世紀にもわたって城壁の中に次々と市街が築かれていったのです。パリを俯瞰の構図で表したこの地図ではシテ島やノートルダム寺院が見え、城壁の向こうには農村が広がっています。

次の展示室にはミュゼの模型が展示されており、美術館を構成するさまざまな建物のつながりや、ふたつの邸宅を2階のギャラリーでつないだミュゼの構成を見ることができます。パリは歴史的に困難な時代があったにもかかわらず、14世紀以来、市庁舎をはじめとする自治体機構の本拠地でした。ブロンズのメデューサの頭で飾られた市庁舎の大きな扉は、1871年のパリ・コミューンの暴動の際の火災を免れ、今に受け継がれているものなのです。

地下には、先史時代から古代、中世を経て16世紀までのパリの成り立ちを説明する新しい展示室が設けられました。近年、紀元前8000年から6500年の間に、この地に人が住んでいた痕跡が発見されました。1990年代に行われたベルシー地区の発掘調査で、紀元前2700年の長さ5メートルを超える見事な丸木舟をはじめ、多数の遺物(骨角器、火打石、陶磁器など)が発見されたのです。紀元前3世紀頃、ガリア人であるパリシイ族がセーヌ河の島に定住し、ルテティアを首都としました。その後紀元1世紀以降、ローマ帝国はガリア地方を征服。リュクサンブール公園の近くで発掘された2世紀の美しいメルクリウス神像が示すように、この地ではふたつの文化が混ざり合っていたのです。ガロ・ロマン時代のルテシア遺跡(アリーナ、フォーラム、温泉浴場、円形劇場など)を思わせる彫刻が施された多数の石の塊が5区と6区で発見されています。

Update : 2022.3.1

ページトップへ

*情報はMMMwebサイト更新時のものです。予告なく変更となる場合がございます。詳細は観光局ホームページ等でご確認いただくか、MMMにご来館の上おたずねください。