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バルザックの家 La Maison de Balzacマダムの連載の一部(10館)が本になりました。 バックナンバーを読む
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▲バルザックの家の入り口
©Anne de Montalembert
親愛なる日本の皆さまへ

一年の始まりにあたり、今回は皆さまをフランスが誇る文豪、オノレ・ド・バルザック(1799-1850)が暮らした家へとご案内いたしましょう。パリ16区、パッシーの丘を背にたたずむ「バルザックの家」は「ロマン派美術館」「ヴィクトル・ユゴー記念館」と並ぶパリ市の「三文学館」のひとつに数えられ、フランス文化省より「著名人の家」*の称号を与えられたミュゼ。パッシーといえば、1859年になってようやくパリに編入された村で、パリの人々は17、18世紀には水を汲みに、19世紀には「ラネラグ」をはじめとするダンスホールに踊りにやって来たものでした。今日では、往時をしのばせる家や庭を残した閑静な住宅街となっています。


▲バルザックの家近くのパッシー公園
©Anne de Montalembert

▲バルザックの家へ続く急な階段
©Anne de Montalembert

バルザックの家は、1926年にレヌアール通りが拡張された際に取り壊された18世紀の娯楽施設に付属する建造物です。通りの下方にあって、今ではとても急な階段から入ることになります。最近になって修復され、バルザックの暮らしたアパルトマンと、ほかの人が借りていた幾つかの部屋を含む3つの階が、それぞれ展覧会場と図書室へと生まれ変わりました。建物を取り囲む素敵な庭にはテーブルと椅子が置かれているので、ここに腰掛け、静けさの中、遮るもののないエッフェル塔の眺めをご堪能なさってもいいでしょう。


▲エッフェル塔を望むバルザックの家の庭
©Anne de Montalembert

▲ロダン《バルザック》石膏習作 1897年
©Maison de Balzac / Roger Viollet

バルザックは小説そのままの人生を生きた作家でした。母親に疎んじられたバルザックは幼い頃から地方で寮生活を送りながら、母に見捨てられたという事実に苦しみます。その後、家族とともにパリへ移り、中等教育を終えた後、公証人のもとで働きながら法律を勉強します。しかし、法律の学位を手にした後、両親の意に反して、作家になることを決意。失敗に終わった戯曲『クロムウェル』(1820年)を皮切りに、さまざまなペンネームで小説を発表しますが、いずれも成功することはありませんでした。


▲バルザックの仕事部屋の窓
©Anne de Montalembert

1822年、22歳のときに、バルザックは22歳年上のベルニー夫人(1777-1836)と出会い、その愛人となります。夫人はバルザックの母親代わりとも出資者ともなって彼を助け、執筆を励ましました。社会的成功を渇望していたバルザックは、1825年に事業に乗り出し財を成すことを決意し、まずは出版業を、ついで印刷業を起こします。しかし、お粗末な経営により、彼の印刷所は破産。借金を抱え、さらにはその後も勘定することなく浪費するバルザックは、終生、借金取りに追い回されることとなります。


▲ズルマ・カロー宛のバルザックの手紙
©Maison de Balzac / Roger Viollet

借金返済のため、バルザックは休みなく働かねばなりませんでした。1829年には、最初の傑作『ふくろう党』を出版。同年発表した『結婚の生理学』で女性の権利を擁護したことにより流行作家となり、さらに、自らの人生と心の傷を詳述した『あら皮』(1831年)で大成功を収めます。社交界へデビューしたバルザックは、ジョルジュ・サンド(1804-1876)やヴィクトル・ユゴー(1802-1885)ら文学界の著名人と親交を結びます。そして15歳年上のダブランテス公爵夫人(1784-1838)を誘惑することで、貴族との出会いを夢見て、母の面影を探し求める自らの気持ちを満たそうとしました。そんな中、バルザックの作品を自由に批評し、彼を現実へと連れ戻したのは、バルザックのたったひとりの女友だち、内気で正直で心の底からの民主主義者であるズルマ・カロー(1796-1889)でした。


▲ジャン・ジグー《ハンスカ夫人》 油彩、カンヴァス 1850年
©Maison de Balzac / Roger Viollet

1832年、バルザックにウクライナからの一通の手紙が届きました。「異邦人」とサインの入ったこの手紙をきっかけに、ポーランドの伯爵夫人エヴェリーナ・ハンスカ(1801-1882)との18年に及ぶ情熱的な文通が始まります。熱烈な恋に落ちたバルザックは、彼女に会うためにヨーロッパ横断を決意します。作家バルザックの輝かしい時代の始まりです。次々と傑作が生まれました。中でも『ゴリオ爺さん』(1835年)はとても重要な作品といえましょう。ここにはベルニー夫人から着想を得て生まれたヒロインが登場する『谷間のゆり』(1836年)や『人間喜劇』(1842-1848年)の主要な登場人物が描かれているのです。『人間喜劇』は1842年に出版が始まり、その後、バルザックが手を休めることなく取り組み続けたフランス社会の一大絵巻でした。この時期1840年〜1847年の間暮らしたのが「バルザックの家」です。

ハンスカ氏が亡くなると、バルザックはハンスカ夫人と結婚する希望を抱き、サンクトペテルブルクへ赴きますが、ハンスカ夫人は婚約をためらいます。しかし、バルザックはなおも彼女との結婚を夢見て、8区のフォルチュネ通り(現在のバルザック通り)に家を購い、豪華な装飾を施して、1847年、ここに居を定めました。そして1850年3月14日、バルザックと彼女との結婚式が、ついにウクライナで行われたのです。バルザックがこの世を去ったのは、そのわずか数カ月後のことでした。重い病気を患い、パリに戻ってきたバルザックは、51歳で永眠。ペール・ラシェーズ墓地で執り行われた葬儀ではヴィクトル・ユゴーが、弔辞を述べました。

「著名人の家」* フランスの歴史・政治・社会・文化などに功績のあった著名人の家111軒に与えられた称号。2010年、ミリー=ラ=フォレのコクトーの家の開館を機に、フランスの文化相によって創設された。


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