マイゼンタールとエミール・ガレ

▲ガレの作品製作に協力したデジレ・クリスチャン 
© Musée du verre Meisenthal

 19世紀末から20世紀にかけて一世を風靡した芸術運動、アール・ヌーヴォー。エミール・ガレはアール・ヌーヴォーの巨匠として、ガラス工芸にとどまらず、家具や陶器の分野でもその才能を発揮しました。草花や昆虫など、自然からのモチーフを大胆に取り込んだ作品には、ガレの自然への敬意や情熱が強く込められ、今もなおその豊かな表現力は世界の人々を魅了し続けています。

 ガレはナンシーの高等中学校時代より植物学に大きな興味を寄せ、優秀な成績を収めました。高等中学校の卒業後、父のアトリエで絵付けの実践的な訓練を積んだガレは、デザインを勉強するため、1865年からドイツのヴァイマール(Weimar)に赴きます。そして翌年、20歳で帰国したガレは、父の会社の提携先であるブルグン・シュヴェレール社でさらに修業を重ね、エナメルによる絵付けやグラヴュール技法*を習得。その翌年の1867年、ついにガレは父親の会社のアート・ディレクターとなり、ガラス工芸家としてのキャリアを本格始動させました。

▲ガレの手による花と蝶がモチーフの花瓶。1880年頃 マイゼンタール・ガラス博物館蔵
© Musée du verre Meisenthal

 その後、1894年にナンシーに自身のガラス工場を持つまでの27年間、ガレは自社のガラス製品をすべてマイゼンタールで製作しました。ブルグン・シュヴェレール社の装飾部門の責任者であったデジレ・クリスチャン(Désiré Christian)や、若くしてクリスチャンにその才能を見いだされた絵付け師ユジェーヌ・クレメール(Eugène Kremer)などのアーティストたちと協力しながら、数々の表情豊かなガラス作品を次々に生み出していったのです。

グラヴュール技法*
16世紀末頃ボヘミアで生まれた技法。回転軸に取り付けられた銅製のグラインダーで、ガラスを彫り込んでいく。カット技法では出せない繊細で陰影に富んだ表現が可能だが、非常に高度な技術が必要とされる。

アール・ヌーヴォーの巨匠として

▲エミール・ガレ《月光色の花瓶》1880〜1884年頃 オルセー美術館蔵 
© RMN (Musée d'Orsay) / René-Gabriel Ojéda

 1877年、父親の会社の経営を引き継いだガレは、翌年に開催されたパリ万博で初めて事業主として国際舞台に立ちます。この時ガレが発表した青みを帯びた透明の素地が特徴の「月光色ガラス(clair de lune)」は、多くの人々を魅了し、高い評価を得ました。続く1889年のパリ万博でも、新開発の素地や技法の作品を多数出品。ガラス部門でグランプリに輝き、国際的名声を確かなものにしていきます。ガレはマイゼンタールで新しい技術を練り上げ、ガラス工芸界に革新をもたらしたのでした。

 そして、ガレがアール・ヌーヴォーの巨匠としての地位を不動のものとしたのは、1900年のパリ万博でのこと。アール・ヌーヴォーの絶頂期であった時代の追い風を見事にとらえたガレは、ガラス部門に加え、家具部門でもグランプリに輝きます。この6年前、ガレは既にブルグン・シュヴェレール社との契約を終え、ナンシーに設立した自社の工場で作品の製造を行っていました。しかし、ガレによるアール・ヌーヴォーのコンセプトが作品として初めて実現したのは、他でもなくマイゼンタールにおいてでした。ガレは卓越した職人とともに、アール・ヌーヴォーに欠くことのできない自然への情熱や象徴的な感性をマイゼンタールで初めて作品に投影しました。マイゼンタールは、今もなお世界中を魅了する、ガレのアール・ヌーヴォー作品の記念すべき発祥の地といえる場所なのです。

▲ガレの製作したオオアマドコロをモチーフとした花瓶。1890年頃 マイゼンタール・ガラス博物館蔵 
© Musée du verre Meisenthal
▲1900年のパリ万博の出品モデル。エミール・ガレ《婦人用の机》 オルセー美術館蔵
© Musée d'Orsay, Dist. RMN / Patrice Schmidt
Update : 2011.8.1
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マイゼンタール

マイゼンタール

パリの北東367kmに位置するロレーヌ地域圏・モゼル県のマイゼンタールは、人口約770人の小さな町。